208年11月、山上王は祭事に用いる生贄の豚を求めて酒桶村へ行き着いたところ、そこで20歳ほどの女性に出会って一夜を共にした。王妃于氏はこれを知って憤慨し、この女性の殺害を試みるが成功しなかった。まもなくこの女性は男子を産んだので、山上王はこの女性を小后(側室)として封じ、先の王子を213年に立太子した。これが後の東川王である。高句麗ではこれまで兄弟相続が続いていたが、有力な五族によるクリルタイ方式の王の選出としていたものが、本拠地の移動によって五族の力が弱められ父子相続に移行していったものと見られている。
217年8月に後漢の平州から夏瑶が千余家の人々を率いて投降したので、これを受け容れて柵城に定住させた。
在位31年にして227年5月に死去した。山上陵に埋葬され、山上王と諡された。
脚注^ 『魏書』が記す位宮と『三国史記』の山上王は年代が合わず、位宮に相当する年代の王は東川王である。
^ その理由として扶余族の「兄死取嫂(兄が死んだときにはその妻を弟が娶る)」という風習が高句麗に残っていたことがあるが、王宮内で勢力を維持したい于氏が望んでのことともされている。
^ 高句麗の王位継承についての内部対立の記事が『三国志』に収められているが、これを受けた記事が『三国史記』には故国川王紀と山上王紀とにそれぞれ少し異なる形で記述されている。
参考文献
井上秀雄『古代朝鮮』、日本放送出版協会<NHKブックス172>、1972 ISBN 4-14-001172-6
『三国史記』第2巻 金富軾撰 井上秀雄訳注、平凡社〈東洋文庫425〉、1983 ISBN 4-582-80425-X
『朝鮮史』 武田幸男編、山川出版社<新版世界各国史2>、2000 ISBN 4-634-41320-5
東明聖王前37-前19 / 瑠璃明王前19-18 / 大武神王18-44 / 閔中王44-48 / 慕本王48-53 / 太祖大王53-146 / 次大王146-165 / 新大王165-179 / 故国川王179-197 / 山上王197-227 / 東川王227-248 / 中川王248-270 / 西川王270-292 / 烽上王292-300 / 美川王300-331 / 故国原王331-371 / 小獣林王371-384 / 故国壌王384-391 / 好太王391-413 / 長寿王413-491 / 文咨明王492-519 / 安臧王519-531 / 安原王531-545 / 陽原王545-559 / 平原王559-590 / 嬰陽王590-618 / 栄留王618-642 / 宝臧王642-668
一覧
カテゴリ