山上光治
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^ 1935年昭和10年)ごろ、岡敏夫が、当時大阪在住の親分天本菊美(天本勝己)の子分となった。
^ 岡組の事務所(道場と呼ばれる賭場も兼ねていた)は広島市猿猴橋町38番地にあった。
^ 村上組の事務所は広島市松原町638番にあった。
^ 最初に襲われてから2日後、山上は再び闇市で洋煙草を売っている。しかしその次の機会に山村組4人にさらわれ、広島駅裏の二葉山に連れ込まれ暴行を受けたが、その後も猿猴橋の闇市に姿を現している。
^ 以下は詳細な顛末である。服部武(後の二代目共政会会長)が、山上光治を背負って、広島市尾長町の岡敏夫の自宅に運んだ。岡敏夫が医者を呼んできた。医者は「こりゃあもうつまらん(治る見込みがない)と言って匙を投げた。仮死状態に陥っていた山上を服部、原田昭三(後の三代目共政会副理事長)、丸本繁喜、近藤、甲島ら岡組若衆が交代で徹夜の看病をした。3日後、山上は意識を取り戻し1月後には歩行ができるまでに回復した。生涯ピッケルの穴は塞がらず傷口の脱脂綿を交換する度に村上組への憎悪を募らせた。
^ このとき山上は、米国製45口径の拳銃を持参し、警備役にあたった
^ 以下は詳細な顛末である。警備員の泉は親類筋の男を捕まえ拳銃を突き付けたが、山上が泉を拳銃で撃った。泉が警笛を鳴らして、当直の警備員を呼んだので逃走した。ちなみに泉はそのまま死亡し、死後巡査に昇格した。
^ 当時は拘置所がなく、広島刑務所で拘置されていた
^ 当時の広島市には、裁判できるような法廷がなかった
^ 共犯の男らは、ともに懲役6年の判決を受けた。
^ 岡組内部では47日間と云われた
^ 1946年(昭和21年)11月6日午前8時半ごろ、岡は裁判所から電話を受け、午前9時すぎにシボレーに乗って広島市基町の裁判所を訪れ、書類一式を受け取った。またその30分後に吉島の広島刑務所に到着した。
^ 記録上、山上は1946年(昭和21年)11月4日広島赤十字病院から脱走したことになっている
^ 「国会会議録・第15回国会法務委員会第19号」では、「11月10日」と明記されているが、本堂淳一郎『広島ヤクザ伝 「悪魔のキューピー」大西政寛と「殺人鬼」山上光治の生涯』幻冬舎<アウトロー文庫>、2003年、ISBN 4-344-40420-3 では、「11月18日」と記述されている
^ 以下は詳細な顛末である。捜査員は駅前派出所に連絡し、武装警官20数名が日劇一帯を包囲しようとした。山上は日劇を出て、近くの好川酒店の横手からこの家屋の風呂場に入った。すぐさま、警官隊やMP一個小隊に包囲された。山上は好川酒店の主婦に「迷惑かけてすまんのう、成り行きで飛び込んだもんじゃけえ。ほいてなんじゃが、もう少し迷惑かけるけん、これ貰うてくれんじゃろうか」と持ち合わせていたすべての金を渡している。
^ 同日午後5時30分ごろ、丸本繁喜も現場に駆けつけた。

出典
資料・出版物
書籍

本堂淳一郎
『広島ヤクザ伝 「悪魔のキューピー」大西政寛と「殺人鬼」山上光治の生涯』幻冬舎<幻冬舎アウトロー文庫>、2003年、ISBN 4-344-40420-3

本堂淳一郎、天龍寺弦、多田拓郎『実録 武勇ヤクザ伝 仁義なき戦い外伝 殺人鬼神話 山上光治 不死身の男編』竹書房、2005年、ISBN 4-8124-6132-4

本堂淳一郎、天龍寺弦、二ツ木哲郎『実録 武勇ヤクザ伝 仁義なき戦い外伝 殺人鬼神話 山上光治 地獄への帰還編』竹書房、2005年、ISBN 4-8124-6304-1

映画・オリジナルビデオ

深作欣二監督『仁義なき戦い 広島死闘篇』(1973年東映)の主人公・山中正治のモデルが山上光治。山中正治役は、北大路欣也

『新・広島やくざ戦争 武闘派列伝 伝説の広島極道 山上功治の生涯』(2002年GPミュージアム)、主人公・山上功治のモデルは山上光治。山上功治役は小沢仁志

参考文献

本堂淳一郎
『広島ヤクザ伝 「悪魔のキューピー」大西政寛と「殺人鬼」山上光治の生涯』幻冬舎<アウトロー文庫>、2003年、ISBN 4-344-40420-3

「国会会議録・第15回国会法務委員会第19号」

関連項目

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