山の手空襲
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3月10日の大規模空爆で使用されたナパーム弾は、ロッキーマウンテン兵器工場で製造された[21]
毒ガス散布計画案

連合国は、東京市に効果的に毒ガスを散布するための詳細な研究を行っており、散布する季節や気象条件を始めとして散布するガスの検討を行い、マスタードガスホスゲンなどが候補に挙がっていた[22]アメリカ陸軍参謀総長ジョージ・マーシャルは「我々が即座に使え、アメリカ人の生命の損失が間違いなく低減され、物理的に戦争終結を早めるもので、我々がこれまで使用していない唯一の兵器は毒ガスである」とも述べていた。アメリカ陸軍はマスタードガスとホスゲンを詰め込んださまざまなサイズの航空爆弾を86,000発準備する計画も進めていた[23]。また、アメリカ軍は日本の農産物に対する有毒兵器の使用も計画していた。1942年にメリーランド州ベルツビル(英語版)にあるアメリカ合衆国農務省研究本部でアメリカ陸軍の要請により日本の特定の農産物を枯れ死にさせる生物兵器となる細菌の研究が開始された。しかし、日本の主要な農産物であるサツマイモなどは細菌に対して極めて抵抗力が強いことが判明したので、細菌ではなく化学物質の散布を行うこととなり、実際に日本の耕作地帯にB-29で原油と廃油を散布したが効果はなかった。さらに検討が進められて、2,4-ジクロロフェノキシ酢酸を農作物の灌漑用水に散布する計画も進められた[24]

人間に対して使用する細菌兵器の開発も進められた。炭疽菌を充填するための爆弾容器100万個が発注され、ダウンフォール作戦までにはその倍以上の数の炭疽菌が充填された爆弾が生産される計画であった。これら生物兵器や化学兵器の使用について、1944年7月にダグラス・マッカーサー大将たちとの作戦会議のためハワイへ向かうフランクリン・ルーズベルト大統領を乗せた重巡洋艦ボルチモア艦内で激しい議論が交わされた。合衆国陸海軍最高司令官(大統領)付参謀長ウィリアム・リーヒは「大統領閣下、生物兵器や化学兵器の使用は今まで私が耳にしてきたキリスト教の倫理にも、一般に認められている戦争のあらゆる法律にも背くことになります。これは敵の非戦闘員への攻撃になるでしょう。その結果は明らかです。我々が使えば、敵も使用するでしょう」とルーズベルトに反対意見を述べたが、ルーズベルトは否定も肯定もせず曖昧な返事に終始したという。結局、生物兵器や化学兵器が使われる前に戦争は終結した[25]
空襲の経過
背景フィリピン海(図中央)の東に位置するマリアナ諸島。南端はグアムで、北には小笠原諸島があり、伊豆・小笠原・マリアナ島弧を形成している。「日本本土空襲」および「ドーリットル空襲」を参照

1942年4月18日に、アメリカ軍による初めての日本本土空襲となるドーリットル空襲航空母艦からのB-25爆撃機で行われ、東京も初の空襲を受け、荒川区、王子区、小石川区、牛込区が罹災した[26][27]。死者は39人[28]。「マリアナ・パラオ諸島の戦い」および「サイパンの戦い」を参照

1943年8月27日、アメリカ陸軍航空軍司令官ヘンリー・アーノルド大将は日本打倒の空戦計画を提出、日本都市産業地域への大規模で継続的な爆撃を主張、焼夷弾ナパーム弾)の使用に関しても言及[29]。この時、アーノルドは科学研究開発局長官ヴァネヴァー・ブッシュから「焼夷攻撃の決定の人道的側面については高レベルで行われなければならない」と注意されていたが、アーノルドが上層部へ計画決定要請を行った記録はない[30]

1944年からのマリアナ・パラオ諸島の戦いマリアナ諸島に進出したアメリカ軍は、6月15日にサイパンの戦いサイパン島に上陸したわずか6日後、まだ島内で激戦が戦われている最中に、日本軍が造成したアスリート飛行場を占領するや、砲爆撃で開いていた600個の弾着穴をわずか24時間で埋め立て、翌日にはP-47戦闘機部隊を進出させている。その後、飛行場の名称を上陸3日前にサイパンを爆撃任務中に日本軍に撃墜され戦死したロバート・H・イズリー中佐に因んでコンロイ・イズリー飛行場(現在サイパン国際空港)改名、飛行場の長さ・幅を大幅な拡張工事を行い新鋭爆撃機B-29の運用が可能な飛行場とし、10月13日に最初のB-29がイズリー飛行場に着陸した[31]。同様に、グアムでも8月10日にグアムの戦いでアメリカ軍が占領すると、日本軍が造成中であった滑走路を利用してアンダーセン空軍基地など3か所の飛行場が建設され、8月1日に占領したテニアン島にもハゴイ飛行場(現・ノースフィールド飛行場)とウエストフィールド飛行場(現在テニアン国際空港)が建設された。ドーリットル空襲後、東京への空襲は途絶えていたが、これらの巨大基地の建設によりB-29の攻撃圏内に東京を含む日本本土のほぼ全土が入るようになった[32]。日本ではマリアナ諸島陥落の責任を東条内閣に求め、1944年7月18日に内閣総辞職した[32]
サン・アントニオ作戦1944年11月のブリーフィングで地図上の東京を指し示す第21爆撃機集団司令ヘイウッド・ハンセル准将

1944年10月12日、マリアナ諸島でB-29を運用する第21爆撃集団が新設されて、司令官には第20空軍の参謀長であったヘイウッド・ハンセル准将が任命された。ハンセルはマリアナに向かう第一陣のB-29の1機に搭乗して早々にサイパン島に乗り込んだ[33]。第20爆撃機集団が中国を出撃基地として1944年6月15日より開始した九州北部への爆撃は、八幡製鐵所などの製鉄所を主目標として行われていたが、これまでの爆撃の効果を分析した結果、日本へ勝利するためにはまずは航空機工場を破壊した方がいいのではないかという結論となった。当時の日本の航空機産業は、三菱重工業中島飛行機川崎航空機工業の3社で80%のシェアを占めていたが、その航空機工場の大半が、東京、名古屋大阪などの大都市に集中しており、新たな爆撃目標1,000か所がリストアップされたが、その中では三都市圏の航空機工場が最優先目標とされた[31]。次いで、都市地域市街地が目標としてリストアップされたが、都市地域は、主要目標である航空機工場が雲に妨げられて目視による精密爆撃ができない場合に、雲の上からレーダー爆撃するための目標とされていた。同時に都市圏の爆撃については、精密爆撃だけではなく、焼夷弾による絨毯爆撃も行って、その効果を精密爆撃の効果と比較する任務も課せられた。したがってアメリカ軍はマリアナ諸島からの出撃を機に都市圏への焼夷弾による無差別爆撃に舵をきっていたことになる[34]

1944年11月1日にB-29の偵察型F-13のトウキョウローズがドーリットル以来東京上空を飛行した。日本軍は帝都初侵入のB-29を撃墜してアメリカ軍の出鼻をくじこうと陸海軍の戦闘機多数を出撃させたが、高度10,000m以上で飛行していたので、日本軍の迎撃機はトウキョウローズを捉えることができなかった。なかには接敵に成功した日本軍機もあり、40分以上もかけてようやく高度11,400mに達しトウキョウローズを目視したが、トウキョウローズはさらにその上空を飛行しており攻撃することはできず、ゆうゆうと海上に離脱していった[35]


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