「屋島」のその他の用法については「屋島 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}この項目には、一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字(Microsoftコードページ932(はしご高))が含まれています(詳細)。
屋島
サンポート高松のシンボルタワーより
標高南嶺 292 m
所在地香川県高松市
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度21分21秒 東経134度6分17秒 / 北緯34.35583度 東経134.10472度 / 34.35583; 134.10472 (屋島)
屋島(やしま、旧字体:屋嶋)は、香川県高松市の北東に位置する、硬質の溶岩に覆われた平坦面が侵食された残丘。南北に長い台地状の地形[1]。
周辺は屋島地区と呼ばれる。 屋島の名称は屋根のような形状に由来し[* 1][* 2]、高松市のシンボルになっている[* 3]。また、古来から瀬戸内海の海路の目印となる特徴物であり、海外交流交易海路に面した要衝であった[2]。 屋島は江戸時代までは陸から離れた島であったが、江戸時代に始まる塩田開発と干拓水田は後の時代に埋め立てられ、陸続きになった。ただし、相引川を瀬戸内海につながる「水路」とみなした場合には、四国本島と切り離されているという見方も出来る。海上保安庁では屋島を島として定めているが[3]、現在の法定区分は、高松市を形成する四国本島の扱いである。全体の大きさは南北に約5km[4]、東西に約2km[4]、南嶺の標高は292m[4]、北嶺の標高は282m[4]、平坦な頂面の周囲に急な崖を持つ典型的なメサの地形であり[4]、開析溶岩台地[5]。両峰は細い尾根で接続されている[1][4][6]。 東岸と西岸と相引川沿いの埋立地は、住宅地・市街地に改変され、国の史跡および天然記念物の指定区域内に多くの人が集住している[7]。山上に多島海が眺められる展望景観を有し、1934年(昭和9年)3月16日、国立公園[8]として初の瀬戸内海国立公園に指定された[* 4]。当初の指定区域は屋島を含む備讃瀬戸の一帯である[9][10]。 島内に重層の遺跡を有し、まれな台地であることから、1934年(昭和9年)11月10日、国の史跡および天然記念物「屋島」に指定された。史跡および天然記念物の指定範囲は、相引川以北の全域と、その地先の100mの海面区域である[11][12][13]。 663年に起こった白村江の戦いの後に屋嶋城が築かれ、山上の全域が城とされている。また、南嶺山上に唐僧・鑑真が創建したとの伝承をもつ屋島寺がある。東岸の入江の一帯は古来の檀ノ浦(讃岐檀ノ浦)で、治承・寿永の乱(源平合戦)における重要な局地戦の一つである屋島の戦いがここを戦場として繰り広げられた[13]。そのほかにも、長崎ノ鼻古墳(ながさきのはなこふん)[* 5]、北嶺山上に千間堂跡(せんげんどうあと)[* 6]、屋島経塚(やしまきょうづか)、長崎ノ鼻砲台跡などがある[14]。 屋島スカイウェイ[* 7]の通じた南嶺山上は、香川県を代表する観光地の一つとして開発されている。しかし、北嶺山上は良好な自然公園である。両者は細い尾根で接続され、各々周回した歩行者専用の探勝遊歩道と、南北嶺を縦走できる登山道が整備されている[* 8][15][16]。 屋島の地形は、新生代中新世の約1500万年前から約1300万年前にかけて起こった瀬戸内火山活動の溶岩などで形成された讃岐層群からなる。基盤岩は花崗岩で、火山活動の溶岩などが湖を埋めた後に土地が隆起したとされている。その後、長期にわたる浸食・削剥作用に対して、硬質の讃岐岩質安山岩(サヌキトイド)がキャップロックとなって残った台地の地形である[1][17][18]。 塩田跡と干拓水田が埋め立てられ、短い多くの橋が架かり、探索だけでは島を認識することは困難である。四国本土と屋島は相引川(幅約10mほどの川)で分離されている[7]。 山頂近くの登山道沿いの通称「畳石」は、板状節理の露頭である[13]。その他、屋島礫層と通称「雪の庭」と呼ばれる白色凝灰岩が南嶺山上に分布する[19]。
概要
地形・地質ほか北方海上で屋島を遠望