屋島
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地形・地質ほか北方海上で屋島を遠望

屋島の地形は、新生代中新世の約1500万年前から約1300万年前にかけて起こった瀬戸内火山活動の溶岩などで形成された讃岐層群からなる。基盤岩は花崗岩で、火山活動の溶岩などがを埋めた後に土地が隆起したとされている。その後、長期にわたる浸食・削剥作用に対して、硬質の讃岐岩質安山岩(サヌキトイド)がキャップロックとなって残った台地の地形である[1][17][18]

塩田跡と干拓水田が埋め立てられ、短い多くの橋が架かり、探索だけでは島を認識することは困難である。四国本土と屋島は相引川(幅約10mほどの川)で分離されている[7]

山頂近くの登山道沿いの通称「畳石」は、板状節理の露頭である[13]。その他、屋島礫層と通称「雪の庭」と呼ばれる白色凝灰岩が南嶺山上に分布する[19]
歴史屋嶋城の城門遺構屋島山頂の談古嶺から相引川河口地域(立石港周辺一帯)を望む。この地域の手前側(西岸域)は屋島の戦いの戦場にもなった檀ノ浦(讃岐檀ノ浦)である。もっとも、江戸時代以来の度重なる開発によって地形は大きく変容し、往時の面影は残されていない。

山麓の浦生(うろ)集落の鵜羽神社境内遺跡では、弥生時代の後期に土器製塩が開始され、古墳時代中期に築かれた長崎ノ鼻古墳に至る。山上では、弥生時代中期の高地性集落の痕跡があり、飛鳥時代の屋島城(屋嶋城)築城に至る[1]

屋島寺(南面山千光院屋島寺)は真言宗御室派古刹である。その前身は北嶺に遺る山岳寺院・千間堂跡地に所在していたという。寺伝によれば、北嶺から南嶺への遷移は嵯峨天皇勅願を受けた弘法大師(空海)によってなされた。鎌倉時代には盛衰を繰り返した。その後は荒廃していたが、江戸時代初期になって勧進による再興が果たされた。江戸時代中は山田郡屋島の時々の領主(高松藩主)であった阿波生駒家知行期間:1587年-1640年)と高松松平家(知行期間:1642年-1871年)から庇護を受けて整備された[20][1]元和4年(1618年)建立の本堂と、本尊である十一面千手観音像(木造十一面千手観世音菩薩坐像。10世紀頃の作)、および、梵鐘貞応2年〈1223年〉銘)は、国の重要文化財に指定されている[21][22](本堂と本尊は1955年〈昭和30年〉指定、梵鐘は1967年〈昭和42年〉指定)。

平安時代末における屋島は、治承・寿永の乱(源平合戦)の局地戦の一つである一ノ谷の戦いに敗れた伊勢平氏安徳天皇を奉じたまま撤退してきた四国東端の軍事要衝であったが、翌年の元暦2年2月(ユリウス暦換算:1185年3月頃[* 9])に源氏の追撃を受け、屋島の戦いの戦場となった。『平家物語』のほか、この戦いで源氏方の那須与一が平氏方の軍船に掲げられたの的を射落とした逸話などが、今日まで語り継がれている[20][23]
登山・ハイキング

屋島登山道(中腹)

屋島登山道の断崖

ウバメガシの林(北嶺)

遊鶴亭(北嶺)で遠望

北嶺登山道(九合目)

山麓北(砲台跡)より

東西を横断するコースもあるが、代表的な南北嶺の縦走コースは下記の通り。

最寄駅から、屋島競技場屋島小学校屋島寺に至る、歩行者専用の屋島登山道(参道・遍路道・四国のみち・県道)を目指す。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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