居酒屋
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江戸は男女比率が極端に男性に偏っており、一人住まいの独身男性が多かったことから酒が飲めて簡便に食事も取れる居酒屋は大いに広まっていった。一方、農村部は最後まで居酒屋の普及が遅れ、18世紀後半まで待たなくてはならなかった。

明治時代になると文明開化の名の下、ビールなど洋酒が流入し、1899年には東京銀座に富裕層向けの「恵比寿ビアホール」が設立された。その後、カフェキャバレー等の洋風居酒屋が相次いで流入した。1939年にはビール生産量が太平洋戦争前のピークを迎えている。太平洋戦争末期の1944年、『決戦非常措置要綱』により多くの飲食店やカフェーが閉店に追い込まれ、一方で1人ビール1本または日本酒1に限る公営の国民居酒屋が登場した[2]

戦後の1960年を境に日本酒と洋酒の消費量が逆転することになった。

1970年代頃までは居酒屋といえば男性会社員が日本酒を飲んでいる所というイメージが強かったが、近年は女性にも好まれるようにチューハイやワインなど飲み物や料理の種類を豊富にしたり、店内装飾を工夫したお店が多くなり、女性だけのグループや家族連れを含め、誰でも気軽に利用できる場所というイメージが定着しつつある。

特に1980年代頃から居酒屋のチェーン店化が進んだ。このことで、居酒屋は安く、大人数が集まることができ、少々騒いでもよく、様々な人の好みにあわせて飲み物や料理を選べるというメリットを持つようになった。このため、学生・会社員・友人同士などのグループで「簡単な宴会」を催す際の会場としてよく用いられている。チェーン店を中心に基本的には低価格で気軽に飲食できることを売りにしている店が多く、そのため男女に関わらず広い層を顧客としている。
中国の居酒屋

中国でこれまでに確認されている最古の酒の痕跡は、紀元前7000年頃の土器に付着していた酒粕である。内訳は米や葡萄蜂蜜などの成分が含まれていた。当初は華北の王都が建国されたため、栽培が盛んになる紀元前270年以前はの酒が、それ以後は麦の酒が飲まれた。稲作は気象条件の都合上、華中華南でしか栽培できなかったため、米の酒が流通するのは、の中国統一による紀元前3世紀頃と言われている。

その後、紀元前6世紀頃の春秋時代に布銭や刀銭、そして紀元前403年から紀元前221年までの春秋戦国時代にかけては青銅貨の円銭が流通した。これら貨幣経済の誕生と共に居酒屋や酒類を提供する宿屋は誕生したと見られている。古代中国では、民衆の酒盛りは禁止されており、の法律には『三人以上故なくして酒を群飲すれば、罰金4』と規定されていた。ただし、国家の慶事の際には民衆の宴会は許されたようである。このことから古代の居酒屋は、富裕層向けに特化した店だったようである。

その後居酒屋は、代の頃になると、各都市部に庶民向けの店が出始め、「酒肆(しゅし)」や「酒楼(しゅろう)」、「酒家(しゅか)」などと呼ばれた。これらは、当時の詩人であった李白杜甫によって歌に詠まれている。各都市の街道沿いには宿屋を兼ねる居酒屋が軒を並べ、看板である「酒旗」を掲げ、ウイグル系の酌婦などが働いていた。当時は夜間の営業が禁止されており、深夜営業は宋朝の時代まで待たなくてはならなかった。またこの唐の時代に、詩人の王翰葡萄酒を歌に詠んでいるが、ワインのような代物ではなく米と葡萄汁をブレンドした醸造酒だったようである。その後はアラビアから蒸留酒が伝来し、「白酒(パイチュウ)」と呼ばれて富裕層が嗜んだ。蒸留酒が庶民に出回るのは20世紀になってからである。

の時代になると居酒屋は「酒?(しゅろ)」と呼ばれるようになり、12世紀初頭の北宋の頃には、酒を蒸気で蒸して加熱殺菌する世界初の試みがなされている。居酒屋が庶民に広がった頃、同時に仏教の寺院等で茶館と呼ばれる飲茶の文化が広まった。居酒屋の持つ多機能性は茶館に集約され、共産党による一党支配がなされるまで、その機能を維持し続けた。現在では「酒家」はレストランを差し、「居酒屋」は日本から逆輸入されて使用されている。
古代オリエントの居酒屋

紀元前18世紀古代バビロニアには既に居酒屋が存在していたとされる[3]。当時の居酒屋は無償提供であり、有償の提供は下賤行為とみなされ、居酒屋は下層民の店として上流階級から侮蔑された。この傾向は貨幣経済が浸透した紀元前7世紀以降も継続する。記録としての居酒屋の最初の記述はバビロニアの法律集ハンムラビ法典であり、代金は大麦、謀の禁止や尼僧の来店禁止などの細かい規定が存在した。

その後紀元前1300年頃には古代エジプトにも広まっており、この時代の王であったラムセス2世の王都ではビール、ワイン、蒸留酒等が売られ、特にビールは国民飲料と言って良いほど頻繁に飲まれたようであるが、ワインは気候柄栽培できなかったため輸入に頼っていた。やがて紀元前670年頃にリディア王国の貨幣鋳造が始まると貨幣経済が浸透する。紀元前の二桁の年数になると尼僧禁制も解かれ、居酒屋は娯楽施設に変容した。居酒屋が世界に伝播して行ったのは宗教のおかげであり、三大宗教のうちの一つであるキリスト教と、その祖先であるユダヤ教は飲酒を悪としなかったため、この2つの宗教が存在するところには自然と居酒屋が発生した。

貨幣経済が当たり前となった紀元前5世紀頃の居酒屋は宿屋の機能も兼ね、古代ギリシャでは多くの詩人や歴史家、演劇人が居酒屋の記録を残している。ギリシャの居酒屋には、ギリシャ以外の外国人や、商人、巡礼者、ヤクザ者、放浪者奴隷出身の水夫肉体労働者など下層民が溜まり場として、売春窃盗、果ては盗賊などのアジトと化していた物まであった。特に物流が集結するアテナイ古代の植民都市であったビザンティウムには居酒屋が多く立ち並んだが、上流階級は相変わらず居酒屋を忌み嫌い、アレオパゴス集会で居酒屋入店を禁止したり、哲学者のプラトンが『飽くなき利益を追求する商売行為』と非難したほどである。またギリシャの居酒屋では、ブドウ栽培やワイン醸造が発達したため、ビールよりワインが好まれた。

時代が進んだ古代ローマの居酒屋兼宿屋は「タベルナ」と呼ばれ、宿屋と共にが併設された。軒に酒の神ディオニソス(ローマ呼びではバッカス)の化身であるキヅタの枝束を吊るして看板としていたようで、ほかにもオリーブ車輪がモチーフになった。ローマやイタリアなどの都市を繋ぐ街道沿いの居酒屋は「カウポーナ」と呼ばれ、1階が食堂で2階が寝室と様式化された。純粋な居酒屋は「ポピーナ」と呼ばれ、女性店員は売春婦として日常的に居酒屋の2階で商売をしていたようである。ローマは紀元前2世紀ギリシャを征服するが、征服前はビール、征服後はギリシャ文化に倣ってワインを好むようになった。

ローマ時代も相変わらず居酒屋は下賤なものとされたが、第2代ローマ皇帝ティベリウスや第3代カリグラ、第4代クラウディウス、第5代ネロ、第8代ウィテリウス、第17代ルキウス・ウェルス、第18代コンモドゥスの歴代皇帝は居酒屋通いをしていたとされる。特にティベリウスは「ビベリウス」(のみ助)のあだ名を称されるほどの酒好きであった。ローマの居酒屋は大体夕方の16時に開店し、祭日ともなると深夜営業を行った。日没後はを炊くなど客への配慮も怠らなかった。ローマ時代の居酒屋には飲酒と売春業の他に賭博業が新たに加わり、特にサイコロ賭博が盛んに興じられ娯楽性が強調されていく。居酒屋はローマ帝国の発展と共に各属州に広まっていくが、ローマ帝国の終焉と共に一度全滅の憂き目に遭う。中世ヨーロッパ初期の領主たちがギリシャやローマの貴族たちのように、自分の領地内での酒類の地産地消を行い、商売としての居酒屋を認めなかったためだ。
ヨーロッパの居酒屋

ヨーロッパで居酒屋が登場するのは11世紀頃である。荘園制度による農地改革農奴たちが土地を経営できるようになったからだ。各村々や都市との交流が再び活発化し、折しも十字軍の時代であったために多くの巡礼者がこの交流に拍車をかけた。王が最後まで居酒屋認可の利権を独占したイギリスと異なり、ヨーロッパ大陸では権力者たちが早々と認可権を手放したため、地方の有力者や教会、修道院などが積極的に居酒屋を経営するようになった。


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