居酒屋
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ヨーロッパで居酒屋が登場するのは11世紀頃である。荘園制度による農地改革農奴たちが土地を経営できるようになったからだ。各村々や都市との交流が再び活発化し、折しも十字軍の時代であったために多くの巡礼者がこの交流に拍車をかけた。王が最後まで居酒屋認可の利権を独占したイギリスと異なり、ヨーロッパ大陸では権力者たちが早々と認可権を手放したため、地方の有力者や教会、修道院などが積極的に居酒屋を経営するようになった。やがて彼らは自分たちが開いた居酒屋以外での飲酒を禁止する居酒屋禁制を公布することとなる。

ドイツではビール、フランスではワインが主だった禁制対象であり、長らく諸侯たちの利権であり続けた。こうして誕生した居酒屋には都市と農村で明確な違いが現れる。都市の居酒屋は上流と下流の人々による棲み分けが行われ、上流では嗜好品としての酒類の提供、下層ではそれに加えての売春、賭博による娯楽の提供に特化していく。一方農村では居酒屋自体が村のコミュニケーションの場となり、世代や性別を問わず人が集うだけでなく、行政や司法などの村の機能を代行する一大コミュニティーセンターとなっていった。

1647年イタリアベネチアにアラブ発祥であるカフェが伝来すると、やがて勃発したフランス革命による封建制の崩壊と上流社会文化の開放により、瞬く間に欧州全土に広がる。18世紀の後半に大衆向けのカフェが出来るようになるとリキュールなどの酒類の提供が盛んに行われ、加えてレストランホテルといった外食産業による酒類の提供も盛んになった。居酒屋の役割はこれら新興の飲食店が果たすようになる。また低温殺菌や冷凍保冷など、酒類を長期間保存できる技術革新も居酒屋を衰退させる間接的な要素となった。革命の伴う封建制の崩壊は、農民たちを都市部に招く結果となり、多くの労働者が発生した。

19世紀になって登場した週払いの給金システムによって、居酒屋は労働者たちの週末の息抜きの場になっていく。二日酔いに伴う月曜日の欠勤が多発し、「聖月曜日」が一時期習慣化する事態となった。19世紀から20世紀にかけて、アメリカ合衆国に端を発した禁酒運動の影がヨーロッパに広がったが、いずれの国でも禁酒法が成立されることはなく、仮に成立してもすぐに廃止された。しかし禁酒運動は、酒類輸送を人員輸送に転換した鉄道旅行の発達や識者たち啓蒙によるスポーツの振興を促す要因となった。
イギリスの居酒屋

西暦43年にローマがブリタニアに侵攻する以前、ケルト人は古代フェニキア人から教わったビールを、紀元前2世紀紀元前1世紀頃には既に常飲していたようである。ローマ以後、455年民族大移動に伴うアングル人サクソン人の入植、そして1066年ノルマン人による征服でも、ビールを飲む習慣は変わらなかった。イギリスのビールはエールと呼ばれ、常温での上面発酵させたホップなしのビールである。

イギリスでのビールは各個人の家庭で作られ、それを近隣住民や旅行者たちに分け与えたのが居酒屋の始まりで、居酒屋が「エールハウス」と呼ばれるのもここから来ている。初期の居酒屋は家庭発祥の経緯から女性経営者が多かったが、専業となるに伴い醸造等の肉体労働に対応するため、男性経営者が増えていく。特にイギリスの場合は身分の低い者たちが経営者となり、毛織物業や皮革業などの兼業で生計を立てることが多かったそうで、居酒屋が専業として免許による認可制になったのは1552年である。

その後居酒屋は、宗教改革に伴う価値観の変化によって聖と俗の分離がなされ、飲酒が涜神行為とみなされるようになる16世紀から17世紀にかけて爆発的にその数を増やしていく。この頃の居酒屋は、宿屋の側面が強い「イン」と「エールハウス」、ワインを専門とする「タヴァン」の3種類に分かれていた。このうちタヴァンにはイギリスの上流階級が頻繁に通うようになり、格差が生じるようになった。また農村では共同体の交流の場となり、会合や商談、選挙投票や裁判などが行われた。

19世紀頃になると居酒屋は「パブリックハウス」、通称「パブ」と呼ばれるようになるが、居酒屋としての多機能性は徐々に失われ、純粋に酒類を提供する店に特化する。当時有名だったパブは「ビクトリアンパブ」であり、パブ内において上流(サルーン、パーラー)と中流、下流に階層順に別れていた。やがて上流向けは会員制クラブやサロンに移行し、パブは下層民の店となる。当初パブでは、エールとビールが良く飲まれたが、17世紀にオランダから伝来したジンを主立って提供する立ち飲み形式の「ジンパレス」が猛威を振るう。その後は踊りやショーを提供するミュージックホールが主流となるが、1843年の劇場法によって演劇が禁止され、音楽と踊りのみ認可されて今日に至る。
フランスの居酒屋

フランスではキリスト教教会修道院が居酒屋の起源であり、客は多くが巡礼者たちであった。しかしカエサル紀元前1世紀ガリアに侵攻(ガリア戦争)を行った時まではビールが主に飲まれており、今日フランスの代名詞であるワインはカエサル率いるローマ人によってもたらされたものである。ワインはまず南部でのブドウ栽培が盛んになり、10世紀頃からセーヌ川ロワール川流域で王権と繋がりの深いクリュニー会の教会や修道院で盛んに醸造され、ミサなどに使用された。11世紀頃にバイキングの侵攻を受けたのを機に、現在のブルゴーニュ地方に栽培拠点を移してからはクリュニー会に異を唱えたシトー会の修道士たちによって、フランス全土に広まっていったのである。

フランスの居酒屋は、宿屋の機能を持つ「オベルジュ」や「ホテル」、大衆飲み屋としての「キャバレー」や「タヴェルン」、安価で食事を提供する「ガルゴット」、そして18世紀の首都パリ郊外で多く見られた「ギャンゲット」がある。18世紀から19世紀にかけてワインが大衆化されるようになってから居酒屋の進化が起こり爆発的にその数を増やした。「ガルコット」は「ターブル・ドート」、「タヴェルン」は「アソモワール」に呼び名が替わり、また喫煙者限定の酒場である「タバジー」、ビールを主に提供する「ビストロ」や「ブラスリ」が登場するが、実際には居酒屋の種類の境界は曖昧であった。

居酒屋の数は19世紀に激増し、1789年は10万だったのが、1830年に28万、1914年にはおよそ50万店舗にまで拡大した。パリだけでもフランス革命時代に公式で3000ほどだった店舗が、1840年代後半には4500、1870年には2万2000、19世紀末では3万に達する。


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