高倉健は『海峡』(1982年10月公開)の後は、出身地福岡を舞台にした『無法松の一生』をやりたいと考えていた[7]。地元からの要望もあり、乗り気で、田中寿一プロデューサーが『無法松の一生』の版権を持っていた伊丹万作の息子・伊丹十三から1,000万円で映画化権を獲った[7]。ところが高倉が森谷司郎監督より降旗康男を監督に希望し、既に森谷には監督オファーをしており、交代は不可能[7]。また高倉はファンから貰った手紙を全て読み、真面目に返事を書いていたが、『無法松の一生』の話がマスメディアに伝わるとあるファンから「健さんにはまだ早すぎるんじゃないでしょうか」と書かれた手紙が来た[7]。高倉が尊敬する三船敏郎が『無法松の一生』を演じたのは38歳のときで、高倉は当時48歳。田中プロデューサーは「遅いくらい」と思ったが、結局高倉はこのファンの言葉を気にして、企画が流れた[7]。それで田中や降旗、木村大作で高倉の次作の企画を探し、木村が雑誌に掲載された丸山健二の小説『ときめきに死す』を降旗に薦めたため、降旗が本屋に行ったら、月が替わってもう売ってなく、バックナンバーを購入しようと出版元の新潮社を訪れた[7]。受付の傍に立っていたら、ちょうど『居酒屋兆治』が台車に乗って何台も運ばれて来て、興味を持った降旗が『ときめきに死す』のバックナンバーと『居酒屋兆治』を買って帰り、家で読んだら『居酒屋兆治』が高倉に合うと直感した[7]。スタッフに提案したが「高倉が平凡な庶民をやるだろうか。モツ焼き屋の主人をやると言うだろうか」と疑問を持たれた[7]。高倉に原作を送ったら、高倉はアッサリOKした[7]。 メインスタッフが決まった頃、黒澤明監督の『乱』に鉄修理役で高倉に出演オファーがあった[7]。高倉が黒澤監督と一度組みたいと希望していたことを知る降旗は「こちらは一度解散します。黒澤さんの方が終わってからまた始めます。一年ぐらいは待ちますが、でも私は他の映画をやっているかもしれません」と言われた[7]。高倉は出演を人に相談することはあまりなかったが、非常に悩み、田中プロデューサーに『南極物語』の撮影が終わりかけのころ相談した[7]。田中は「主役じゃないならやる必要ないのでは」と答えた[7]。また東宝撮影所でたまたま会った森繁久彌が高倉に「健さん、黒澤組、でないよね」と諭し、「黒澤とやったら、あんたの良さが全部消されるよ。絶対やっちゃいけない」と言われた[7]。それで高倉は黒澤監督と初めて会った帝国ホテルで直接断った[7]。諦めきれない黒澤は本作を高倉がやることを聞き、高倉に直接会い、降旗との面会を求めた[7]。ケンカになることも予想されるため、降旗は黒澤との面会を拒否した[7]。ただ高倉は『乱』についてはかなり未練が残っていたといわれる[7]。一度チームを解散したため、次の現場に入っていたスタッフもおり、田中プロデューサー、降旗監督、木村撮影はキープ出来たが他は80%入れ替えとなった[7]。田中プロデューサーが原作者の山口瞳の自宅を訪問し、映画化の承諾を得た。また原作の舞台の学園都市・国立では映画にしにくいこと、当時高倉が『駅 STATION』で共演した倍賞千恵子との仲をマスメディアに騒がれていたため、マスメディアに押しかけて来たら撮影に差し支えることを懸念し、舞台を函館に変更したいと提案[7]、山口から合わせて承諾を得た。この時の条件として山口は函館競馬場への招待を要求し、山口が山藤章二と、浅井慎平、村松友視を函館に連れて来て、そのまま映画にも出ている[7]。 ヒロインには高倉も賛成した大原麗子。小料理屋「若草」のママにはちあきなおみをキャスティングしたが、ちあきから「夫と長く一緒にいたいから東京を離れたくない」と渋られた[7]。しかし夫の郷^治が「高倉さんの映画なら思い出になるから出た方がいい」と薦めてくれ出演を承諾した[7]。
製作決定まで
キャスティング