尾道
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8世紀から海路整備が始まり行基によりほぼ1日航程の間隔で港が整備され、この地の東に敷名泊(福山市)、西に長井の浦三原市)が整備された[23]。ただしこの時点では尾道は主要港として位置づけられていない。

山の通称にもなっている代表的な寺院は以下のとおり創建している。

浄土寺 : 推古天皇24年(616年)、聖徳太子が開山[24][25]。『東京物語』のロケ地。

西國寺 : 天平年間(729年 - 749年)、行基が開山[26][25]

千光寺 : 大同元年(806年)、弘法大師が開基[27][25]

浄土寺創建の伝承から、尾道には616年より前に港があったと考えられている[21]。また御袖天満宮は、延喜元年(901年)大宰府へ左遷される途中の菅原道真がこの地に舟で立ち寄ったという伝承を元に起こった神社である[16][28][25]

艮神社。千光寺と同年である806年鎮座。『時をかける少女』『かみちゅ!』の舞台[29]

御袖天満宮。『転校生』『かみちゅ!』『てっぱん』の舞台[28]

大山寺平安時代初期(延暦13年(794年)-)には創建されていたとされる。のち境内に御袖天満宮が建立され別当寺となった[30]

港町の成立

平安時代、尾道は小さな漁村であったと考えられている[31]。平安時代後期、西國寺は火災により大半が消失したが、永保元年(1081年)白河天皇の勅命により復興され、永保2年(1082年)白河天皇の祈願所となった[32]。この西國寺復興を記した『西國寺文書』内に、文献上初めて尾道の名が出てくる[17]。天仁元年(1108年)西國寺は白河法皇(院政)により勅願寺官寺)となり、山陽道随一の伽藍を誇るようになった[32]

現在、技術上の問題で一時的にグラフが表示されなくなっています。

尾道の北にある現世羅郡世羅町には平安時代に「大田庄」という荘園があり、平氏政権が樹立された時代平重衡の荘園だった[17][33][25]。ただ荘園からの年貢を運び出すための倉敷地(港)は存在していなかったため、下司は尾道を用いたいと嘆願を上げていた[16][17]永万2年(1166年)重衡は大田庄を後白河院寄進したことから院領荘園となり、嘉応元年(1169年)尾道が院により倉敷地として正式に認められた[17][33][25][31]。「港町」尾道の歴史はここから始まる[17][33][34][2]

文治2年(1186年)後白河院は大田庄を高野山金剛峯寺)に寄進、尾道も高野山領となる[17][25]。大田庄の年貢である米やゴマは、倉敷地である尾道で一旦保管され良い天候まで待ち、そこから船で高野山の港である紀伊湊まで運ばれていった[33]


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