平安時代、尾道は小さな漁村であったと考えられている[31]。平安時代後期、西國寺は火災により大半が消失したが、永保元年(1081年)白河天皇の勅命により復興され、永保2年(1082年)白河天皇の祈願所となった[32]。この西國寺復興を記した『西國寺文書』内に、文献上初めて尾道の名が出てくる[17]。天仁元年(1108年)西國寺は白河法皇(院政)により勅願寺(官寺)となり、山陽道随一の伽藍を誇るようになった[32]。
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尾道の北にある現世羅郡世羅町には平安時代に「大田庄」という荘園があり、平氏政権が樹立された時代平重衡の荘園だった[17][33][25]。ただ荘園からの年貢を運び出すための倉敷地(港)は存在していなかったため、下司は尾道を用いたいと嘆願を上げていた[16][17]。永万2年(1166年)重衡は大田庄を後白河院に寄進したことから院領荘園となり、嘉応元年(1169年)尾道が院により倉敷地として正式に認められた[17][33][25][31]。「港町」尾道の歴史はここから始まる[17][33][34][2]。
文治2年(1186年)後白河院は大田庄を高野山(金剛峯寺)に寄進、尾道も高野山領となる[17][25]。大田庄の年貢である米やゴマは、倉敷地である尾道で一旦保管され良い天候まで待ち、そこから船で高野山の港である紀伊湊まで運ばれていった[33]。また建久5年(1194年)高野山は大田庄へ半畳12帖貢納を命じており[35]、この頃から筵・畳(備後表)が作られていたことになる。これらの運搬は荘官の下で任務にあたっていた“問”“問丸”“舵取り”等呼ばれた海運業者が行っていた[33][31]。文永7年(1270年)から尾道の港で独自に津料(関税)を徴収している[31]。海龍寺
。かつては曼荼羅堂と呼ばれ定證が浄土寺中興の際に安居していた。寛元3年(1245)渕信は定證に寄進、徳治2年(1307)浄土寺塔頭となった[36]。寛元3年(1245年)高野山は尾道に和泉法眼淵信を預所として派遣し、年貢米の輸送と管理にあたらせた[17][31]。淵信はここから30年近く尾道を管理し、弘安9年(1286年)浄土寺別当となっている[31][37]。この頃になると淵信は尾道で権力を持つとともに高野山の意思とは別に独自に動き出して莫大な富を得ていた[33][17][37]。