浄土寺に「露滴庵」という茶室がある。これは元々伏見城内に豊臣秀吉が所有していた茶室“燕庵”を様々な経緯を経て尾道の商人天満屋が海物園に移設した所、文化11年(1814年)浄土寺に寄進したというもの[34][122]。つまり、安土桃山時代に花開いたわび茶文化が尾道にも伝播していたことを意味する[93]。
尾道の茶文化は江戸時代後期に「茶園」、邸宅内あるいは尾道三山斜面地の風光明媚な場所に作られた茶室や庭園、を生み出した[93][123][117]。この茶園には多くの文人が訪れ、例えば頼山陽や菅茶山、田能村竹田や浦上春琴らは作品を残している[93][123]。山陽はたびたび尾道を訪れ、文政12年(1829年)千光寺山に登った時に詩を作った。磐石可坐松可拠(磐石坐す可く松拠る可し)
松翠缺処海光露(松翠缺くる処海光露わる)
六年重来千光寺(六年重ねて来たる千光寺)
山紫水明在指顧(山紫水明指顧に在り)
萬瓦半暗帆影斜(萬瓦半ば暗くして帆影斜なり)
相傳残杯未傾去(相傳う残杯未だ傾け去らず)
回首苦嘱諸少年(首を回らして苦に諸少年に嘱す)
記取先生曽酔処(記取せよ先生曽て酔いし処と) ? 頼山陽、[124]
正岡子規は、日清戦争の従軍記者として尾道を通った時に一句残している。のどかさや 小山つづきに 塔二つ ? 正岡子規、[124]志賀直哉が描写した尾道水道と向島。志賀直哉旧居
近代文学では、志賀直哉『暗夜行路』と林芙美子『放浪記』が特に著名。
志賀は尾道で暗夜行路の前身にあたる『時任謙作』を起稿、『清兵衛と瓢箪』を執筆している[125][119]。景色はいい処だった。寝ころんでいて色々な物が見えた。前の島に造船所がある。其処で朝からカーンカーンと金槌を響かせている。同じ島の左手の山の中腹に石切り場があって、松林の中で石切人足が絶えず唄を歌いながら石を切り出している。その声は市まちの遥か高い処を通って直接彼のいる処に聴えて来た。 ? 志賀直哉、暗夜行路[82]林芙美子文学碑。左の文章が刻まれている。背後の尾道水道とロープウェーと共に尾道を代表する風景である。旧林芙美子居宅、おのみち林芙美子記念館
若年期を尾道で過ごした林の放浪記にも尾道は出てくる。海が見えた。海が見える。五年振りに見る尾道の海はなつかしい、汽車が尾道の海へさしかかると、煤けた小さい町の屋根が提灯のように、拡がって来る。赤い千光寺の塔が見える。山は爽やかな若葉だ。緑色の海向うにドックの赤い船が帆柱を空に突きさしてる。私は涙があふれていた。 ? 林芙美子、放浪記[124]尾道市立美術館新館。安藤忠雄の設計[126]。
尾道出身の芸術家としては平田玉蘊、宮原節庵、福原五岳など(圓鍔勝三は御調、平山郁夫は瀬戸田、矢形勇は原田出身)。
洋画家小林和作は、尾道に移り住み創作活動を続け、自身が得意とした風景画に尾道を描いた。和作以外にも尾道の風景の描いた画家は多くおり、尾道市はその写生地に案内目印を建て整備している[127]。
川瀬巴水『尾之道 千光寺の坂』
日下部金兵衛
『東京物語』原節子と笠智衆。浄土寺で撮影。なお右の灯籠は尾道最古の灯籠で同地に無く浄土寺経堂前に移設されている[128][129]。撮影中の原節子と小津安二郎。当時地方ロケは珍しかったため多くの見物人が訪れた[128]。
最初に尾道が舞台となった映像作品は、1929年公開木藤茂『波浮の港』になる[130]。
代表的なものとして小津安二郎『東京物語』が挙げられている[130]。世界的に評価の高いこの作品は海外にもファンが多く、ロケ地見物に観光客が訪れている[128][131]。