戦国時代後期、尾道は毛利氏の支配下に置かれた[47]。毛利氏は自分の家臣を配置したのではなく、尾道の豪商たちと私的な主従関係を結ぶことで尾道を支配した[47][64]。文禄4年(1595年)毛利氏は商人の中から代官を決め、商人による自治は続いた[62][47]。花隈城の戦いで敗れ毛利氏へ亡命してきた荒木村重が尾道で隠遁しており、古寺の庵で茶の湯を嗜んだと伝わる(尾道へのわび茶文化の伝来)[65][66]。尾道の商人は豊臣秀吉の朱印船貿易にも絡み[67]、文禄・慶長の役の際には尾道の商人が船を出し輸送に関わっている[25]。
江戸時代、この地は広島藩領となる。尾道は藩内随一の港町「広島藩の台所」として最盛期を迎える[62][68][34]。
「町」の制定
江戸時代初期、藩により農業区域として“村”と商工業区域として“町”に明確に区別された[25][69]。慶長6年(1601年)福島氏(福島正則)による検地で尾道は町に定められた[69]。のち福島氏は改易され浅野氏が入封すると、浅野氏は福島氏藩政を踏襲し補強する形で藩整備を進めた[69]。寛永15年(1638年)浅野氏による検地で町方「尾道町」が定められた[25][69]。当初は5人の豪商から町年寄を、その下に12組60人の月行司を選出し、堺・京都・博多などと同様に商人による自治行政が行われていた[62][47]。藩政改革「正徳新格」に伴い正徳5年(1715年)尾道に町奉行が置かれその下に商人から選出された町年寄・組頭・月行司を再編成することになり、藩権力の下ではあったが町人による町政は続いた[62][34][47]。官道整備近世の街道[70]を2015年時点の地図に示したもの。赤線が西国街道、青線が出雲街道、黒丸が防地峠。なお西国街道は尾道本通り、出雲街道のほとんどが広島県道363号栗原長江線と一致する。西国街道筋の常称寺南の現久保2丁目と現尾道郵便局前に枡形が残っている[63]。
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