応安4年(1371年)今川了俊の紀行文『道ゆきぶり』によると、この時代の尾道は漁師町を主体とした港町であったこと、現在のように山と海に挟まれた狭小地に民家が密集していた[31][33]。対岸の歌島(向島)沿岸部では製塩が盛んであった[33]。港には陸奥や筑紫から交易船が来ていた[31][33]。歌島(向島)や生口島など周辺島嶼部で生産された塩などの物産を取り扱うことで、尾道はさらに交易港として発展した[51]。現代になって行われた発掘調査から、沿岸部の埋め立て・土地造成は室町時代から活発化したことがわかっている[17]。
この地は中国地方を勢力下においた山名氏が支配していたが明徳の乱で室町幕府に敗れ没落した。この頃、将軍足利義満が天寧寺に宿泊[52]、応永2年(1395年)義満は備後大田庄含めた6個郷地頭職、そして尾道・倉敷を高野山西塔へ寄付している[25]。応永の乱の手柄により再び山名氏が守護として返り咲くと、尾道は山名氏領内の重要港として発展していく[33]。
日明貿易が始まり、尾道にも遣明船が停泊、中には尾道船籍のものも存在していた[33]。発掘調査において、この年代の地層から瀬戸焼・常滑焼・備前焼・東播系須恵器のほか、中国青磁・白磁、朝鮮陶磁器も出土していることから、かなりの規模の商業活動が行われていたと考えられている[17][40][47]。
この時代に、将軍足利氏による新たな建立や西國寺が守護山名氏の庇護で再建されるなど「寺のまち」の基盤が形成され、商人たちは彼ら権力者の庇護を受けつつ尾道を自治運営していた[31][53][33]。特に現在時宗の寺院が6ヶ寺あるのも尾道の特徴である[17]。
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中世の建築物が現存する寺院[54]。中世には長江・十四日と久保に入江があった。尾道本通り付近がかつての海岸線であり、15世紀から16世紀前半には埋め立てられ道として整形されていた[39][55]。
尾道を代表する風景の一つ、天寧寺から東方向を撮影したもの。この寺は尊氏の意思を継いで足利義詮が工事を寄進、普明国師を請して開山した。左に見える塔婆は嘉慶2年(1388年)建立[56][57][53]。
常称寺。遊行2代他阿により開基。尾道における時宗寺院の最高位。暦応3年(1340年)尊氏が七堂伽藍を建立したが現存せず[58][59]。
西郷寺。遊行6代一鎮により開基。文和2年(1353年)建立の本堂は、現存最古の時宗寺院本堂になる。尊氏から院号や本尊である念持仏(阿弥陀如来立像)をもらい受けたという伝承が残る[53]。
西國寺金堂。至徳3年(1386年)建立。西國寺は守護山名氏から庇護を受けた[60]。
西國寺三重塔。永享元年(1429年)足利義教が建立。