尾道
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遺物の出土状況から、13世紀から14世紀初頭の尾道の中心地は、浄土寺や西國寺を後背に持つ坊地口周辺であったと考えられている[17]。入江の集落から傾斜地の寺社に向けて小路が繋がっていた[39]。この頃から尾道は港町として大きく発展し、有力な海運業者や商人が出現した[17]。そして海賊(交易品を強奪する盗賊ではなく水先人として通行料を得ようとするもの)が現れ、中には地元有力者と結びつくものも現れた[33][37][40]

備後守護所鎌倉時代初期には瀬戸長和庄(福山市)にあり、長井貞重が治めていた[37]文保2年(1318年)西国悪党を鎮圧する目的で京都(六波羅探題)から使節が尾道に派遣されたが、雑掌はそれを拒否した[37]。使節は翌文保3年(1319年)に帰洛するが、その1ヶ月後に悪党がいるとして守護貞重は尾道に代官円清高を派遣した[37]。このときの尾道の人口は5,000人を超えており[34]、代官清高らは数々の悪行をし、仏閣社殿数カ所と政所・民家1,000戸あまりを焼き払った[37]。高野山が院に守護貞重の狼藉を訴えたことで収まった[37]。のちに長井氏は守護所を尾道に置いた[37]
中世の繁栄持光寺山門。この寺は承和年間(834年 - 848年)慈覚大師により草創。この山門の建立年度は不明で元々は鐘楼が乗っていたと考えられている。36枚の花崗岩からなり、尾道の石工を代表するものである[41][42][43]浄土寺山門。浄土寺の寺紋が足利氏の二引両であり、この山門の側面に二引両が刻まれている。この寺に足利尊氏により利生塔が建立されたが現存せず。境内には尊氏供養塔といわれる宝篋印塔がある[44][45][46]

鎌倉時代の尾道における交易品は塩や鉄・布製品など[47]。この当時から商人だけでなく刀鍛冶や石工など職人も暮らしていた[40]。中国山地で生産された鉄(たたら製鉄)が沼田小早川氏の三原(三原市)まで運ばれ刀鍛冶として育っていき、小早川氏等への供給による利潤獲得のため尾道でも刀鍛冶が行われるようになった[47]天平年間(729年から749年)から創業した“其阿弥家”は現在でも存続している[48]。当時から近年まで鍛冶業が盛んであったとわかっている[40]。また石工が発達したのは鎌倉時代後期から室町時代にかけてで、現在重要文化財に指定されている宝篋印塔や五輪塔にはこの時代に造られている[40][49]。また問丸(海運業者)は他領の年貢輸送も行っており利益を得ていた[34]

建武3年(1336年)、建武の新政後九州に落ち延びる足利尊氏は途中で浄土寺に参拝、再び京へ東上(建武の乱)の途中にまた浄土寺に参拝し戦勝祈願している[17][25]。尊氏が(福山市)で光厳上皇院宣を獲得し勢力を拡大していったのは、この後のことになる。この鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて、幕府の弱体化によりこの地の守護や海賊たちが力をつけ独立し、尾道の周辺にも砦そして城が造られた[50]。現在尾道で行われている吉和太鼓おどりの起源は諸説あるが、一説には尊氏が尾道から九州に向かうときに水先案内人を務めたのが吉和の漁師たちで、尊氏の戦勝を祝って踊ったのが始まりとされている[45]

応安4年(1371年)今川了俊の紀行文『道ゆきぶり』によると、この時代の尾道は漁師町を主体とした港町であったこと、現在のように山と海に挟まれた狭小地に民家が密集していた[31][33]。対岸の歌島(向島)沿岸部では製塩が盛んであった[33]。港には陸奥筑紫から交易船が来ていた[31][33]。歌島(向島)や生口島など周辺島嶼部で生産された塩などの物産を取り扱うことで、尾道はさらに交易港として発展した[51]。現代になって行われた発掘調査から、沿岸部の埋め立て・土地造成は室町時代から活発化したことがわかっている[17]


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