尾道は山にも海にも通じた便利な場所となり、日本各地から様々な商品を運んだ船がやってきて、尾道の商人は中継交易して他の地へ売りさばいていった[89]。港の活性化とともに、豪商によって沿岸部の浚渫と埋立および築港が進められた[68][2][39]。大規模な埋立は広島藩営でも行われ、できた土地は商人に払い下げられるが藩は工事費より高く売ったため差額は藩財政を潤した[2]。港湾利用者のため花街が形成された[2]。北前船の荷主や船頭を問屋が接待するのに用いられ、たくさん北前船が来た時には芸者が足りなくなり、しかもこれがたびたびあったという[2]。
こうして、海沿いが港湾施設、平地が西国街道沿いを中心に商家・町家、そして尾道三山の斜面側に神社仏閣、とゾーン分けがこの時代に定まり、街道から北の斜面地の寺社そして南の海をつなぐ小路がいくつもでき、町割りの多くが現在でも尾道の町でそのまま引き継がれている[39][90]。
江戸時代中期になると市場経済の拡大により尾道は更に活況し新興豪商が台頭するも、古い商人との対立が増え秩序が乱されるようになった[72][91]。そして尾道の東隣になる福山藩の港・鞆との競合も激しくなっていった[72]。それに伴い尾道は港として信用が落ち停滞するようになる[72][92]。藩は尾道のこの状況を危惧した[72]。元文5年(1740年)、第13代尾道奉行平山角左衛門が着任すると、流通機構の改革を進めた[68][2][72]。ちょうど町民により港の拡張要望が出されていたころで、平山は着任早々藩の事業として「住吉浜」埋立工事を行っている[68][2]。平山自ら陣頭指揮に当たったこと、人夫に賃金を与えたことから、多くの人がこの工事に参加したため、すべての工事を50日間という短期間で終えている[68][2][62]。その他にも“問屋役場”を設立されそれまで慣例化していた掟を問屋掟として明文化、株仲間を藩公認とした[93][62][68]。明和元年(1764年)広島藩札の価値が暴落し商業活動が困難となると、商人たちにより資金融通機関“問屋座会所”が設立された[62][62]。
尾道水道を縦断する渡船の最古の記録は、寛政から文化年間(1789年から1817年)に“兼吉渡し”が出来たものになる[94]。これは現在の尾道渡船にあたる[94]。
一方で、泰平の世となり海賊の心配がなくなったことに加え廻船の操船技術の向上により、陸地側を通る“地乗り”航路から瀬戸内海中央部を通る“沖乗り”航路が主流となっていくと、御手洗や倉橋(呉市)など島嶼の港町の取引量が上がった[77][72]。こうなると広島藩は交易港としての尾道を軽視するようになる[92]。