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[全画面表示]周辺の主な港[76]。赤が広島藩の港。.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}尾道 西廻海運の主な寄港地[67][76]
江戸時代初期、徳川家康の朱印船貿易で恩恵を受けたが、徳川家光が制定した鎖国制度以降海外交易が禁止されたため、商人たちは弱体化し没落した豪商も出た[67]。寛文12年(1671年)、西廻海運、つまり北海道・東北地方を起点に日本海から瀬戸内海をまわり大阪そして江戸に至る海運ルートが確立し、尾道には北前船など廻船が寄港するようになる[34][68]。これにより商業圏が拡がり全国的な取引が可能となり、新たな豪商が台頭した[72][67]。この北前船との交易によって、尾道は広島城下より繁栄し広島藩の台所と呼ばれるようになった[51]。主な取り扱い品は以下のとおり。
他から尾道へ尾道から他へ
米 -- 諸藩の年貢米は江戸時代前期には大阪まで運ばれて売られていたが、江戸中後期になるとはそれが崩れ瀬戸内海沿岸の港町でも売られるようになった。広島藩は尾道と宮島(廿日市市)御手洗(呉市)の3港のみ他国米の取引を公的に認可したため、広島での米取引の重要拠点であった[67][68][77][13]。
金肥 -- 干鰯・油粕など[68][67][72]
海産物 -- 鰊・昆布・鮭・数の子・鰤など[68][67]
穀類 -- 大麦・大豆など[72]
材木 -- [67]
米 -- 広島藩の年貢米の積出港であった。広島藩ものは質量共に良く、大阪でブランド米として流通した[10][78]。
塩 -- “備後塩”と呼ばれた主力交易品。備後ものは元々中世から畿内で需要が高かったことに加えて、近世から北海道や北陸で特産品となった塩干魚の加工に必要となったため、更に需要が高まった。江戸時代初期、広島藩により竹原(竹原市)で塩田が整備されたが廻船での交易で需要量が増えていくと更に商人たちによって尾道周辺の島々で塩田が整備され、“浜旦那”と呼ばれた塩田の地主・経営者が誕生している[67][68][72][79][51][13]。
畳 -- “備後表”。福山藩・広島藩ともに公用表(幕府への献上表など)として生産しており、民間流通分である商用表は広島藩では尾道のみで出荷されていた。なお畳表・塩・魚介・他国米の取引などは、福山藩の主要港である鞆と競合関係にあった[35][67][68][72][13][71]。
綿、綿製品 -- 広島藩は新田開発とともに殖産興業を推進した。干拓で造成された土地には塩に強い綿花を植えることが奨励されたことにより、綿製品の生産量が上がり特産品“安芸木綿”として流通した。加工しない状態でも取引されていた[67][80][78]。
石材加工品 - 尾道で中世から盛んだった石工はこの時代にも名産品だった。