尾道
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尾道は藩内随一の港町「広島藩の台所」として最盛期を迎える[62][68][34]
「町」の制定
江戸時代初期、藩により農業区域として“村”と商工業区域として“町”に明確に区別された[25][69]。慶長6年(1601年)福島氏福島正則)による検地で尾道は町に定められた[69]。のち福島氏は改易され浅野氏が入封すると、浅野氏は福島氏藩政を踏襲し補強する形で藩整備を進めた[69]寛永15年(1638年)浅野氏による検地で町方「尾道町」が定められた[25][69]。当初は5人の豪商から町年寄を、その下に12組60人の月行司を選出し、堺・京都・博多などと同様に商人による自治行政が行われていた[62][47]。藩政改革「正徳新格」に伴い正徳5年(1715年)尾道に町奉行が置かれその下に商人から選出された町年寄・組頭・月行司を再編成することになり、藩権力の下ではあったが町人による町政は続いた[62][34][47]官道整備近世の街道[70]を2015年時点の地図に示したもの。赤線が西国街道、青線が出雲街道、黒丸が防地峠。なお西国街道は尾道本通り、出雲街道のほとんどが広島県道363号栗原長江線と一致する。西国街道筋の常称寺南の現久保2丁目と現尾道郵便局前に枡形が残っている[63]

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