尾道
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中世以前の海岸線と近世以降に埋立造成された土地では1mほどの高低差がある[12]

流れ込む河川は二級河川栗原川など小規模なものしか存在しておらず、河川が作った沖積平野が小さいため平地が乏しい[8]。尾道水道は、潮流が速い[6]。かつては栗原川から土砂が流出して河口で堆積し、その一部が満潮になると潮流によって東側へ運ばれ向島の東側では南から北へ潮流が流れるため山波沖で巨大な洲が生じた[13][2]。港の東西に浅瀬ができてしまうため、各年代で浚渫・埋立・築港してきた歴史がある[13][2]
由来

尾道の名の由来は、一般的には「山の尾の道」説が定説となっている。江戸時代に書かれた『芸藩通志』によると尾道の名義詳ならず おもふに此地もとは海涯の地甚狹く 山足にそひて往來すれば 山の尾の道と云を以 名づけしにや 土人おもへらく 地もと玉を出す古歌に詠玉浦これなりと 海東諸國記に 尾路關とあり 圖書編 三才圖會 登壇必究 並に和奴密智と書す 皆此地を云なり ? 『藝藩通志』三十三備後[14]「玉の岩」と千光寺山ロープウェイ

映像外部リンク
千光寺の「玉の岩」伝説

かつてこの地は大宝山(千光寺山)摩尼山(西国寺山)瑠璃山(浄土寺山)の三山が海岸まで迫り平地がなく、海岸沿いつまりそれぞれの山の尾根沿いに一筋の道があったことから、この名がついたと言われている[15][16]。その他には、神功皇后が海に近い地にカラムシで道を作ったという伝承から「苧の道」を由来とする説[16]、比較的新しい説で司馬遼太郎が唱えた船の航路を意味するから「澪の道」が転訛した説[15]、その他にも説がある。

尾道の名が出てくる最古の資料は、永保元年(1081年)に書かれた『西國寺文書』の中の「尾道浦」である[17]

別名に、千光寺玉の岩伝説からきた「玉の浦」がある。ただし玉の浦は他の地とも言われている[18]。「尾路關」「和奴密智」の他に、宋希m『老松堂日本行録』には「小尾途津」[19]とある。
沿革
古代

古代尾道は、小さな集落として存在していた[17]。尾道の東にある松永湾で縄文時代弥生時代貝塚跡が発見されており、尾道も同様にこの頃から人が住んでいたと推定されている[20][21]。また周辺島嶼の古墳時代の遺跡から製塩土器が大量に出土しており、この頃から周辺島嶼で塩作りが盛んに行われていた[20]

国郡里制下では備後国御調郡に属し、その中の者度郷の一部であったとされるが、諸説ある[22]飛鳥時代、郡の中心は尾道の北にある御調(尾道市御調町)にあり、そこには官道(古代)山陽道が通り駅家もあったとされる[20]。ただしこの地方では瀬戸内海での海路が発達し、庸・調税の輸送も海運が利用されるようになると、官道より海路が重要視されるようになる[20]8世紀から海路整備が始まり行基によりほぼ1日航程の間隔で港が整備され、この地の東に敷名泊(福山市)、西に長井の浦三原市)が整備された[23]。ただしこの時点では尾道は主要港として位置づけられていない。

山の通称にもなっている代表的な寺院は以下のとおり創建している。

浄土寺 : 推古天皇24年(616年)、聖徳太子が開山[24][25]。『東京物語』のロケ地。

西國寺 : 天平年間(729年 - 749年)、行基が開山[26][25]

千光寺 : 大同元年(806年)、弘法大師が開基[27][25]

浄土寺創建の伝承から、尾道には616年より前に港があったと考えられている[21]。また御袖天満宮は、延喜元年(901年)大宰府へ左遷される途中の菅原道真がこの地に舟で立ち寄ったという伝承を元に起こった神社である[16][28][25]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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