尾道の名が出てくる最古の資料は、永保元年(1081年)に書かれた『西國寺文書』の中の「尾道浦」である[17]。
別名に、千光寺玉の岩伝説からきた「玉の浦」がある。ただし玉の浦は他の地とも言われている[18]。「尾路關」「和奴密智」の他に、宋希m『老松堂日本行録』には「小尾途津」[19]とある。 古代尾道は、小さな集落として存在していた[17]。尾道の東にある松永湾
沿革
古代
国郡里制下では備後国御調郡に属し、その中の者度郷の一部であったとされるが、諸説ある[22]。飛鳥時代、郡の中心は尾道の北にある御調(尾道市御調町)にあり、そこには官道(古代)山陽道が通り駅家もあったとされる[20]。ただしこの地方では瀬戸内海での海路が発達し、庸・調税の輸送も海運が利用されるようになると、官道より海路が重要視されるようになる[20]。8世紀から海路整備が始まり行基によりほぼ1日航程の間隔で港が整備され、この地の東に敷名泊(福山市)、西に長井の浦(三原市)が整備された[23]。ただしこの時点では尾道は主要港として位置づけられていない。
山の通称にもなっている代表的な寺院は以下のとおり創建している。
浄土寺 : 推古天皇24年(616年)、聖徳太子が開山[24][25]。『東京物語』のロケ地。
西國寺 : 天平年間(729年 - 749年)、行基が開山[26][25]。
千光寺 : 大同元年(806年)、弘法大師が開基[27][25]。
浄土寺創建の伝承から、尾道には616年より前に港があったと考えられている[21]。また御袖天満宮は、延喜元年(901年)大宰府へ左遷される途中の菅原道真がこの地に舟で立ち寄ったという伝承を元に起こった神社である[16][28][25]。 平安時代、尾道は小さな漁村であったと考えられている[31]。平安時代後期、西國寺は火災により大半が消失したが、永保元年(1081年)白河天皇の勅命により復興され、永保2年(1082年)白河天皇の祈願所となった[32]。この西國寺復興を記した『西國寺文書』内に、文献上初めて尾道の名が出てくる[17]。天仁元年(1108年)西國寺は白河法皇(院政)により勅願寺(官寺)となり、山陽道随一の伽藍を誇るようになった[32]。
艮神社。千光寺と同年である806年鎮座。『時をかける少女』『かみちゅ!』の舞台[29]。
御袖天満宮。『転校生』『かみちゅ!』『てっぱん』の舞台[28]。
大山寺。平安時代初期(延暦13年(794年)-)には創建されていたとされる。のち境内に御袖天満宮が建立され別当寺となった[30]。
港町の成立