尾張
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当時は、徳川吉宗による享保の改革の真っ只中で規制が厳しかったため、全国から文化人が名古屋に集まり、今日の芸どころ名古屋の基礎が築かれていった[8]

産業面では、徳川家康から義直へ婚礼祝いとして木曽の山々が与えられていたことにより、木曽川を下って良質で大量の木材が名古屋に集積され、名古屋桐箪笥・名古屋仏壇・木桶など、木工産業が盛んになった。また、家康の機械式時計を修理した津田助左衛門が尾張藩お抱え時計師となり、その技術は和時計からくり人形に生かされた。

こうした木工・時計技術は後に鉄道車両飛行機自動車などに利用され、名古屋のものづくり産業の原点となっている[8]。その他、尾張藩は陶磁器を独占産業として位置付けたため、戦国時代末期には衰退していた瀬戸は陶磁器の街として復興している。

知多半島では、醸造業がさかんになり、灘に次ぐ酒の生産地であったという[9]。同時に海運業も発展し、尾州廻船が活躍した。酒や味噌、常滑焼などを運ぶほか、遠隔地で仕入れた荷物を売買する「買積」方式で莫大な利益を稼いだ[9]

文化面では、この時に蓄えられた財力で建造されたとされるからくり人形が搭載された豪華な山車をひく祭りが、現在でも知多半島各地で行われている[10]

現在に到る食文化もこの時代に形成された。義直は徳川家の総本拠たる岡崎から職人を招いて八丁味噌を作らせた。現代でも「名古屋と言えばミソ文化」とされ、味噌煮込みうどん味噌カツ味噌おでんといった他の地方にはない独特の食文化として認知されている。他に三河芋川が発祥とされる「いもかわうどん」が名古屋できしめんとして人々に愛され、現代に到っている。

尾張藩の表向きの禄高は約62万石(尾張国で47万石だが広範囲に飛び地があった)だが、殖産奨励により実質的な禄高は100万石以上あったとされ、全国的にみても非常に裕福な藩であった。このため四公六民という全国的にみても低い税率であった。

ところが、相次ぐ飢饉災害などの天災により赤字体質となっていく。名古屋市役所愛知県庁舎名古屋市中区戦災で焼失した名古屋城天守の金鯱長久手市
江戸時代末期


10代藩主徳川斉朝から13代藩主徳川慶臧まで将軍家周辺からの養子が続いた。このため藩主が江戸藩邸暮らしで領国経営を顧みない風潮が続き、支藩からの養子が待望される。

1849年嘉永2年) - 支藩・高須藩から14代藩主徳川慶恕(改名後、慶勝)が就任する。慶勝は初代藩主・義直の遺訓を守り、尊皇攘夷を主張し、質素倹約で藩政を改革する。しかし、水戸藩主・徳川斉昭らと共に独断で日米通商修好条約を締結した大老井伊直弼の専横に抗議した。

1858年安政5年)の安政の大獄にて隠居謹慎を命じられ、実弟の徳川茂徳に藩主の座を譲る。

井伊が桜田門外の変で横死すると慶勝は14代将軍・徳川家茂の補佐役に抜擢され、茂徳隠居に伴い慶勝の実子徳川義宜が16代藩主となる。こうして藩の実権を慶勝が握る形となる。公武合体派の重鎮となった慶勝は一橋家当主・徳川慶喜、前福井藩主・松平慶永(春嶽)、前土佐藩主・山内豊信(容堂)、前伊予宇和島藩主・伊達宗城会津藩主・松平容保[注 8]薩摩藩主・島津久光雄藩連合から成る参預会議の一員に選ばれるも辞退。

第一次長州征伐では征討軍総督(大参謀に薩摩藩士・西郷吉之助)を命じられ、この戦いに快勝して京に凱旋。しかし、続く第二次長州征伐には反対の立場をとり、弟の茂徳にも総督就任を辞退させた。

近代
明治時代

明治維新中央集権国家が形成されると、名古屋市明治政府による地方支配の拠点都市となり、現在に至っている。
明治維新


1867年11月9日(慶応3年10月14日)、大政奉還が成ると慶勝は新政府議定に任命され、徳川15代将軍・徳川慶喜への辞官納地通告役を命じられる。

鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗戦後は新政府の一員として大阪城を受領。この後、藩内で朝廷派と佐幕派の対立が激化したとの報告で藩に戻り、佐幕派を弾圧した。(青松葉事件1871年(明治3年)初代名古屋藩知事となるが翌年の廃藩置県で免職となる。

1875年明治8年)に義宜病死により尾張徳川家を慶勝が再継承し第17代当主となった。こうして御三家筆頭ながら最高権力者の徳川慶勝が初期から明治新政府に参加したことで尾張国は戊辰戦争の惨禍に遭うこともなかった。

なお名古屋城は、慶勝の提案で破却および金鯱の献上が申請された。

1879年明治12年)12月、山縣有朋が名古屋城と姫路城の城郭の保存を決定。

1893年(明治26年)、本丸陸軍省から宮内省に移管され名古屋離宮と称する。

その後、名古屋離宮は1930年昭和5年)に廃止されることになり、宮内省から名古屋市に下賜された。その一方、城内に1872年明治5年)東京鎮台第三分営が置かれた。1873年明治6年)には名古屋鎮台となり、1888年明治21年)に第三師団に改組され、太平洋戦争敗戦に到るまで主に兵器庫として活用された。このため米軍の名古屋大空襲焼夷弾の直撃を受け焼失した。天守は、地元商店街の尽力や全国からの寄付により1959年昭和34年)に再建されて、復元された金鯱とともに名古屋市のシンボルとなり、現在に至っている。
近世以降の沿革

旧高旧領取調帳」の記載によると、明治初年時点では概ね全域が名古屋藩領であった。熱田神宮領、加藤図書助[注 9] 知行なども存在した。(1,022村・765,235石余)

愛知郡(132村・124,200石余)、春日井郡(201村・151,652石余)、丹羽郡(132村・73,204石余)、葉栗郡(41村・19,070石余)、中島郡(164村・124,229石余)、海東郡(106村・127,615石余)、海西郡(99村・44,587石余)、知多郡(147村・100,675石余)


慶応4年1月24日1868年2月17日) - 附家老成瀬氏領が犬山藩、同竹腰氏領が美濃今尾藩としてそれぞれ立藩。領地は各郡に散在したが、海西郡・知多郡には今尾藩領はなかった。

明治4年

7月14日1871年8月29日) - 廃藩置県により、名古屋県犬山県今尾県の管轄となる。


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