尾張
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総社一宮以下『中世諸国一宮制の基礎的研究』に基づく一宮以下の一覧[12]

総社:尾張大国霊神社 (稲沢市国府宮、北緯35度15分22.25秒 東経136度48分18.79秒 / 北緯35.2561806度 東経136.8052194度 / 35.2561806; 136.8052194 (尾張国総社:尾張大国霊神社))

一宮:真清田神社 (一宮市真清田、北緯35度18分27.20秒 東経136度48分7.51秒 / 北緯35.3075556度 東経136.8020861度 / 35.3075556; 136.8020861 (尾張国一宮、名神大社:真清田神社)) - 初見は1165年の史料。『十六夜日記』に「一宮といふやしろ」と記されている。この他、同じ一宮市の大神神社も尾張国一宮を称する。

二宮:大県神社 (犬山市宮山、北緯35度19分49.13秒 東経136度58分01.29秒 / 北緯35.3303139度 東経136.9670250度 / 35.3303139; 136.9670250 (尾張国二宮、名神大社:大県神社)) - 初見は1143年の史料。一宮もこの頃定まったとされる。

三宮:熱田神宮 (名古屋市熱田区神宮、北緯35度07分38.59秒 東経136度54分31.22秒 / 北緯35.1273861度 東経136.9086722度 / 35.1273861; 136.9086722 (尾張国三宮、名神大社:熱田神宮)) - 古代からの大社であるが、一宮にはならなかったとされる。その理由には諸説がある[注 10]

守護所

鎌倉時代守護所の位置は不詳だが、将軍の宿泊地に必ず萱津が当てられ、守護はその接待をした事からその近辺だという説がある。

いつ頃からは定かでないが、室町時代には下津(稲沢市)にあった。
地域

鎌倉時代は、『海道記』によると「(夜陰に市腋といふ處に泊る。前を見おろせば、海さし入りて、河伯の民、潮にやしなはれ。)市腋をたちて津島のわたりといふ處、舟にて下れば(中略)渡りはつれば尾張の國に移りぬ。(中略)萱津の宿に泊りぬ。」とあり、この当時、弥富市津島市は、尾張国と見なされておらず、あま市甚目寺萱津)辺りから尾張国であったと考えられている。

北隣の美濃国とは現在の木曽川の一部と境川あたり、長良川の一部を国境とした。氾濫により川の流路がしばしば変わり、紛争が起きることもあった。鎌倉時代には六波羅探題の管轄下で西国の扱いを受けていた。鎌倉時代におきた承久の乱によると尾張国の範囲は尾張九瀬で認識され、前渡、印食、墨俣などの渡しを境としていた。尾張国は愛知県よりは北と西に広かった。ただし、領国支配としては美濃国土岐氏が管理していたことが多いために美濃国との記載が多い。戦国時代には多くが斉藤氏の支配下であったようだが、織田氏にとっては尾張川(現在の境川)と墨俣川(現在の長良川で羽島市小熊町より南)が尾張と認識されており天正14年までは尾張国として扱っている。木曽川は、豊臣政権時代の天正14年(1586年)に氾濫してほぼ現在と同じ流路を流れるようになった。天正14年(1586年)に木曽川が氾濫して流路をほぼ現在のものに変えたことをうけて、変更された木曽川の北岸と中洲を尾張国から美濃国に移した。現在の地図にあてはめると、北岸は岐阜県のうち境川と木曽川にはさまれた一帯、中洲は各務原市川島にあたる。該当するのは、岐阜市(旧柳津町の一部等)、各務原市(旧稲羽町の一部、旧川島町)と、羽島郡のほぼ全域(岐南町笠松町)、羽島市のほぼ全域、海津市(旧海津町平田町の大部分)である。「天正の大洪水」によって葉栗郡中島郡海西郡が新しい木曽川によって分断され、新流路西岸は美濃国に編入された。古事類苑によると豊臣秀吉の意向であったことが記載されている。そのため、愛知県側と岐阜県側に同じ地名が今もいくつか残る(例:愛知県一宮市東加賀野井と岐阜県羽島市下中町加賀野井。愛知県一宮市浅井町河田と岐阜県各務原市川島町河田。字は異なるが、愛知県一宮市木曽川町三ツ法寺と岐阜県羽島市正木町光法寺。)現在の愛知県西部にありながら上記の国境変更後の尾張国に属さなかった地区に、現在の稲沢市祖父江町の一部、一宮市東加賀野井、一宮市西中野などがある。これは令制国の廃止後に、市町村の境界変遷で所属する県が移ったものである。

江戸時代では尾張国と美濃国の多くの地域は、尾張藩が中心となり細かく分割されて管理された。


知多郡…「ちたぐん」と読む。元は「智多郡」と書いた。

愛知郡…「あいちぐん」と読む。元は「愛智郡」と書いた。

春日井郡…「かすがいぐん」と読む。元は「春部郡(かすかべぐん)」と表記。現在の春日井市や西春日井郡など。

丹羽郡…「にわぐん」と読む。

葉栗郡…「はぐりぐん」と読む。現在の一宮市北部、江南市北部。

中島郡…「なかしまぐん」と読む。現在の一宮市南部、稲沢市。

海東郡…「かいとうぐん」と読む。もと海部郡(あまぐん)。大正期に海西郡と統合。

海西郡…「かいさいぐん」と読む。もと海部郡(あまぐん)。大正期に海東郡と統合。

山田郡…「やまだぐん」と読む。戦国期に春日井郡と愛知郡に分割編入され消滅。

古事類苑』では、尾張国内には69郷が存在することが記されている。

中嶋郡…美和、神戸、拜師、小塞、三宅、茜部、石作、日野、川埼

葉栗郡…葉栗、河沼、大毛、村國、若栗

海部郡…新屋、中島、津積、志摩、伊福、島田、海部、日置、三刀、物忌、三宅、八田

丹羽郡…五鬘、稻木、上春、丹羽、穗積、大桑、下沼、上沼、前刀、小弓、小野、小口

愛智郡…中村、千竈、日部、太毛、物部、熱田、作良、成海、驛家、神戸

春部郡…池田、柏井、安食、山村、高苑、餘戸

知多郡…番賀、贄代、富具、但馬、英比

山田郡…船木、主惠、石作、志誤、山口、加世、兩村、餘戸、驛家、神戸

江戸時代の藩

尾張国の藩の一覧藩名居城藩主
清洲藩清洲城

松平忠吉(62万石、1600年 - 1607年) : 無嗣断絶

尾張藩清洲城
1607年 - 1612年
名古屋城
1612年 - 1871年

尾張徳川家(47万2344石→56万3206石→61万9500石、1607年 - 1871年)

犬山藩
尾張藩附家老犬山城

小笠原吉次(1600年 - 1607年)

平岩親吉(11万3000石、1607年 - 1611年)

成瀬家(3万石→3万5000石、1617年 - 1871年)

緒川藩緒川城

水野分長(9820石、1601年 - 1606年) : 三河新城藩1万石に移封


人物
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この節の加筆が望まれています。

尾張守

相模伊波(従五位下)宝亀5年(774年)任官

紀本(従五位下):宝亀7年((776年) 任官

陽侯令?(外従五位下):天応元年(781年)任官

藤原真川(従五位下):延暦25年(806年)任官


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