1871年(明治4年)の廃藩置県により旧大名家が東京に拠点を移し、旧藩地の財産を処分する中、義礼は名古屋市東区大曽根(現在の徳川園)に本邸を置き、1900年(明治33年)に明倫中学校を開設、家財の保存に努めるなどしていたが[13][14]、第19代・義親のとき、尾張家の事務所(1913年)と本籍(1920年)を名古屋から東京[15]へ移し、1910年代以降、明倫中学校を愛知県に譲渡、什器を競売に出し、墓地を集約するなどして名古屋の施設・什器等の整理を進め、建物や所有地を大々的に処分した[16]。その旧蔵品の一部は『徳川将軍家御三家御三卿旧蔵品総覧』(宮帯出版社)に編集・収録されている。義親は1931年(昭和6年)に財団法人尾張徳川黎明会を設立し、処分した什宝の売却益等により[17]大曽根の義礼邸跡地に徳川美術館、目白に蓬左文庫・徳川生物学研究所を開設した[18]。
戦後、1946年(昭和21年)に義親が戦争協力者として公職追放にあい、1947年(昭和22年)に華族制度廃止により爵位を喪失[19]。財産税の適用により資産の約8割を喪失[19]、保有していた南満州鉄道の株券が無価値になり[20]、八雲町の徳川農場は農地法の適用を受け、一部の山林を残して解放された[21]。
財政難のため目白の邸宅は西武に売却され[22]、蓬左文庫は1950年(昭和25年)に藩政資料などを徳川林政史研究所に残して名古屋市に売却され、徳川生物学研究所は1970年(昭和45年)に閉鎖、施設はヤクルトに売却された[23][24][25]。
2016年(平成28年)現在、公益財団法人徳川黎明会が徳川美術館と徳川林政史研究所を運営[26]、株式会社八雲産業が目白の邸宅跡地に建設された外国人居留者向けの賃貸住宅と八雲町に残された山林を運営しており[27][28][29]、尾張家の当主は黎明会会長、美術館館長、八雲産業社長に就任している[30][31]。
歴代当主と後嗣たち
初代(藩主) 徳川義直 - 敬公
光友(2代)
2代(藩主) 徳川光友 - 正公
綱誠(3代)
松平義行(四谷松平家=高須藩初代藩主)
松平義昌(大窪松平家=梁川藩初代藩主)
松平友著(川田窪松平家祖)
友淳(のち高須藩3代藩主義淳、さらに宗家を継ぎ、名古屋藩8代藩主徳川宗勝)
3代(藩主) 徳川綱誠 - 誠公
吉通(4代)
松平通顕(のち名古屋藩第6代藩主徳川継友)
松平義孝(高須藩2代藩主)
松平通春(陸奥梁川藩主、のち名古屋藩7代藩主徳川宗春)
4代(藩主) 徳川吉通 - 立公
五郎太(5代)
5代(藩主) 徳川五郎太 - 誉公
(実子なし)
6代(藩主) 徳川継友(3代藩主綱誠の子) - 曜公
(実子なし)
7代(藩主) 徳川宗春(3代藩主綱誠の子) - 逞公
(実子なし)
8代(藩主) 徳川宗勝(支藩高須藩3代藩主から襲封、名古屋藩2代藩主光友の孫) - 戴公
宗睦(9代)
松平義敏(高須藩4代藩主)
義柄(高須藩5代藩主、のち名古屋藩9代藩主宗睦世子、徳川治行)
義裕(高須藩6代藩主)
松平勝当(高須藩7代藩主、高須松平家における義直系最後の当主)
9代(藩主) 徳川宗睦 - 明公
治休(嗣子、早世)
治興(嗣子、早世)
10代(藩主) 徳川斉朝(一橋徳川家から養子) - 順公
(実子なし)
11代(藩主) 徳川斉温(徳川将軍家から養子、11代将軍徳川家斉の実子) - 僖公
(実子なし)
12代(藩主) 徳川斉荘(田安徳川家から養子、11代将軍徳川家斉の実子) - 懿公
昌丸(一橋徳川家8代当主、夭折)
13代(藩主) 徳川慶臧(田安徳川家から養子)- 欽公
(実子なし)
14代(藩主) 徳川慶勝(初め慶恕/支藩高須藩から養子、水戸藩6代藩主徳川治保の曾孫)- 文公
義宜(16代)
15代(藩主) 徳川茂徳(支藩高須藩11代藩主から襲封、14代慶勝の実弟、のち一橋徳川家10代茂栄)
松平義端(高須藩12代藩主)
徳川達道(一橋徳川家11代当主、伯爵)
16代(藩主) 徳川義宜(養子、14代慶勝の実子) - 靖公
(実子なし)
17代 徳川慶勝(14代慶勝の再勤)- 文公
徳川義恕(尾張徳川家分家祖、男爵)
義寛(尾張徳川家分家当主、男爵、昭和天皇の侍従長)
尾張徳川侯爵家
当主
18代(侯爵) 徳川義礼(高松松平家から養子、夫人は17代慶勝の娘)
19代(侯爵) 徳川義親(越前松平家から養子、夫人は18代義礼の娘)