築城にあたり清洲城下町がそっくり移転され、清洲城の資材は名古屋築城に再利用された(清洲越し)。こうして長らく尾張支配の象徴だった清洲城は破却となり、かわって名古屋城が中心となる。この決定については、清洲城址の発掘調査で1586年1月18日(天正13年)に発生した天正地震で深刻な液状化現象が発生し、当時の清洲城主・織田信雄が大規模な改修を行ったが根本的な解決に到らなかったためと考えられている。また名古屋移転に伴い、呼称も清洲藩から尾張藩と改められた。家格も徳川御三家の筆頭という将軍家に次ぐ格別な位置に置かれ、その城下町たる名古屋は江戸時代の中期頃には三都に次ぐ大都市となった。
1730年9月 - 7代尾張藩主に徳川宗春が就くと、祭りを奨励し、芝居小屋や遊郭を作ることを認めて能楽や歌舞伎、茶道や華道など様々な文化が盛んになった。
当時は、徳川吉宗による享保の改革の真っ只中で規制が厳しかったため、全国から文化人が名古屋に集まり、今日の芸どころ名古屋の基礎が築かれていった[8]。
産業面では、徳川家康から義直へ婚礼祝いとして木曽の山々が与えられていたことにより、木曽川を下って良質で大量の木材が名古屋に集積され、名古屋桐箪笥・名古屋仏壇・木桶など、木工産業が盛んになった。また、家康の機械式時計を修理した津田助左衛門が尾張藩お抱え時計師となり、その技術は和時計やからくり人形に生かされた。
こうした木工・時計技術は後に鉄道車両・飛行機・自動車などに利用され、名古屋のものづくり産業の原点となっている[8]。その他、尾張藩は陶磁器を独占産業として位置付けたため、戦国時代末期には衰退していた瀬戸は陶磁器の街として復興している。
知多半島では、醸造業がさかんになり、灘に次ぐ酒の生産地であったという[9]。同時に海運業も発展し、尾州廻船が活躍した。酒や味噌、常滑焼などを運ぶほか、遠隔地で仕入れた荷物を売買する「買積」方式で莫大な利益を稼いだ[9]。
文化面では、この時に蓄えられた財力で建造されたとされるからくり人形が搭載された豪華な山車をひく祭りが、現在でも知多半島各地で行われている[10]。
現在に到る食文化もこの時代に形成された。義直は徳川家の総本拠たる岡崎から職人を招いて八丁味噌を作らせた。現代でも「名古屋と言えばミソ文化」とされ、味噌煮込みうどん、味噌カツ、味噌おでんといった他の地方にはない独特の食文化として認知されている。他に三河芋川が発祥とされる「いもかわうどん」が名古屋できしめんとして人々に愛され、現代に到っている。
尾張藩の表向きの禄高は約62万石(尾張国で47万石だが広範囲に飛び地があった)だが、殖産奨励により実質的な禄高は100万石以上あったとされ、全国的にみても非常に裕福な藩であった。このため四公六民という全国的にみても低い税率であった。
ところが、相次ぐ飢饉や災害などの天災により赤字体質となっていく。名古屋市役所と愛知県庁舎名古屋市中区戦災で焼失した名古屋城天守の金鯱長久手市
江戸時代末期
10代藩主徳川斉朝から13代藩主徳川慶臧まで将軍家周辺からの養子が続いた。このため藩主が江戸藩邸暮らしで領国経営を顧みない風潮が続き、支藩からの養子が待望される。
1849年(嘉永2年) - 支藩・高須藩から14代藩主徳川慶恕(改名後、慶勝)が就任する。慶勝は初代藩主・義直の遺訓を守り、尊皇攘夷を主張し、質素倹約で藩政を改革する。しかし、水戸藩主・徳川斉昭らと共に独断で日米通商修好条約を締結した大老井伊直弼の専横に抗議した。
1858年(安政5年)の安政の大獄にて隠居謹慎を命じられ、実弟の徳川茂徳に藩主の座を譲る。
井伊が桜田門外の変で横死すると慶勝は14代将軍・徳川家茂の補佐役に抜擢され、茂徳隠居に伴い慶勝の実子徳川義宜が16代藩主となる。こうして藩の実権を慶勝が握る形となる。公武合体派の重鎮となった慶勝は一橋家当主・徳川慶喜、前福井藩主・松平慶永(春嶽)、前土佐藩主・山内豊信(容堂)、前伊予宇和島藩主・伊達宗城、会津藩主・松平容保[注 8]、薩摩藩主・島津久光ら雄藩連合から成る参預会議の一員に選ばれるも辞退。
第一次長州征伐では征討軍総督(大参謀に薩摩藩士・西郷吉之助)を命じられ、この戦いに快勝して京に凱旋。