尾張国
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日本紀略元慶8年(884年)8月26日条では、尾張国分寺が焼失し、その機能を愛智郡定額寺の願興寺(現・名古屋市中区の尾張元興寺跡か)に移したと見える[4][注 6]。発掘調査においても、この焼失後の存続は認められていない[5]

尾張国分寺跡

真清田神社
尾張一宮

大縣神社
尾張二宮

中世

古代より引き続き水利工事が進められ(木曽川・長良川流域。隣国美濃国とともに耕地開発された)、国の面積は小さいながらも米の生産高は他国に比べ早くから向上した。
平安時代源頼朝の生誕地とされる熱田神宮大宮司藤原氏の別邸跡(誓願寺

平安時代末期になると熱田大宮司であった藤原季範源氏に接近し、娘の由良御前源義朝に嫁いで源頼朝を産んでいる。

また、季範の養女(孫娘)は足利義康(足利氏初代)に嫁いでおり、足利氏にも血脈を伝えている(足利氏8代目が室町幕府を開く足利尊氏である)。

治承5年(1181年)、「治承・寿永の乱」における「墨俣川の戦い」が尾張国と美濃国の国境にある墨俣川(現在の長良川)で行われた。

鎌倉時代

から鎌倉のある東国への往還道として鎌倉街道が整備され、東西の交通の要衝となる。主な経由地は以下の地域と推定される。[6]

黒田一宮市

萱津あま市

古渡名古屋市中区

鳴海名古屋市緑区


室町時代清洲城清須市

室町時代初期には美濃国の守護であった土岐氏などが守護を務めていた。

1400年頃に斯波義重(義教)が尾張守護に着任する。

斯波義重の父斯波義将は、越前福井県)と越中富山県)の守護であり、父から越前守護職を譲られた後、尾張(愛知県)と遠江静岡県)の守護となる。その際、越前時代からの被官である甲斐氏織田氏・二宮氏らが尾張に送りこまれ、荘園公領給人として配置された。


1405年、義重によって清洲城が築城された。
以後戦国期に至る150年間,尾張は足利一門守護で三管領斯波氏の領国となった。なお、1391年には知多郡が、1395年には海東郡の分郡守護に一色氏が任じられているが、これは当時の守護であった土岐氏を牽制する措置であったとされている。だが、海東郡は1430年一色義貫足利義教と対立して没収され、知多郡も応仁の乱一色義直が西軍に着いた際に室町幕府に没収されている[7]
戦国時代

斯波氏守護代織田氏が実力を持つも、応仁の乱の発生で織田家は二つに分裂。東軍についた「大和守家(清洲織田氏)」と西軍についた「伊勢守家(岩倉織田氏)」が戦後の尾張支配を巡って抗争状態となる。斯波氏は両者を巧みに操縦していたが、やがて実力を失う。また駿府の今川氏親が東尾張に侵攻した名残りで那古野城は今川家の保有となる。「大和守家」の家老一族が「弾正忠家」として枝分かれし、織田信秀の代で躍進する。信秀は那古野城今川氏豊から奪い取るなど功績を挙げた。
近世桶狭間古戦場伝説地(豊明市小牧山城小牧市犬山城犬山市長久手古戦場公園(長久手市
安土桃山時代


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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