易林本の『節用集』によると尾張国は肥沃(地厚土肥)な大上国と記されており、古代から須恵器や土師器などの焼き物生産が盛んであった。その富裕な農業生産力や畿内への地理的な近さを背景にして朝廷を支える律令国として成長した。
国府宮
洞本業窯(瀬戸焼)
陶栄窯(常滑焼)
尾張七宝(七宝焼)
奈良時代
741年(天平13年) - 聖武天皇による国分寺建立の詔に続いて、尾張国分寺に関し『続日本紀』において天平勝宝元年(749年)5月15日条、神護景雲元年(767年)5月20日条、神護景雲3年(769年)9月8日条、宝亀6年(775年)8月22日条にそれぞれ記載が確認される[4]。
このうち神護景雲3年記事によると、当時の国府・国分寺・国分尼寺の位置は鵜沼川(現・木曽川)下流とされる[4][5]。『日本紀略』元慶8年(884年)8月26日条では、尾張国分寺が焼失し、その機能を愛智郡定額寺の願興寺(現・名古屋市中区の尾張元興寺跡か)に移したと見える[4][注 6]。発掘調査においても、この焼失後の存続は認められていない[5]。 古代より引き続き水利工事が進められ(木曽川・長良川流域。隣国美濃国とともに耕地開発された)、国の面積は小さいながらも米の生産高は他国に比べ早くから向上した。 また、季範の養女(孫娘)は足利義康(足利氏初代)に嫁いでおり、足利氏にも血脈を伝えている(足利氏8代目が室町幕府を開く足利尊氏である)。
尾張国分寺跡
真清田神社
(尾張一宮)
大縣神社
(尾張二宮)
中世
平安時代源頼朝の生誕地とされる熱田神宮大宮司藤原氏の別邸跡(誓願寺)
平安時代末期になると熱田大宮司であった藤原季範は源氏に接近し、娘の由良御前が源義朝に嫁いで源頼朝を産んでいる。
治承5年(1181年)、「治承・寿永の乱」における「墨俣川の戦い」が尾張国と美濃国の国境にある墨俣川(現在の長良川)で行われた。
鎌倉時代
京から鎌倉のある東国への往還道
黒田(一宮市)
萱津(あま市)
古渡(名古屋市中区)
鳴海(名古屋市緑区)
室町時代清洲城(清須市)
室町時代初期には美濃国の守護であった土岐氏などが守護を務めていた。
1400年頃に斯波義重(義教)が尾張守護に着任する。
斯波義重の父斯波義将は、越前(福井県)と越中(富山県)の守護であり、父から越前守護職を譲られた後、尾張(愛知県)と遠江(静岡県)の守護となる。