尾張国
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朝日遺跡などの大規模環濠集落が現れる。

天火明命を祖神とする尾張氏が本拠を置き、ヤマト王権の天皇家と婚姻関係で結びつき支配を確立した。


貝殻山貝塚
朝日遺跡

尾張神社

尾張戸神社

古墳時代(大和時代)

景行天皇の時代には、三種の神器の一つ草薙剣(天叢雲剣)を祀る熱田神宮を創建した。

日本武尊の東征の際に通ったとされ、内々神社萱津神社など、日本武尊に纏わる神社や地名が多く残る。

4世紀頃から7世紀頃まで、断夫山古墳を始め多くの古墳が造営されている。


熱田神宮

萱津神社

内々神社

成海神社

志段味大塚古墳
志段味古墳群

飛鳥時代

645年大化元年)7月14日 - 孝徳天皇が神に供えるを課した。

7世紀朝廷によって律令制が敷かれると尾張国造の領域が令制国の尾張国の範囲となる。

660年代には、国とによる地方行政区画が施行されていたが、本格的な地方行政制度は8世紀の初頭に地域を国・郡・里の3段階に区分し、『延喜式』民部式によると尾張は、海部郡中嶋郡葉栗郡丹羽郡春部郡(かすがべぐん)・山田郡愛智郡知多郡の八郡であった。


663年白村江の戦い以降、国際的危機に直面したこともあり、国防力の増強を図る政策を打ち出した為、西国へ向かう防人の通行路にもなった。

易林本の『節用集』によると尾張国は肥沃(地厚土肥)な大上国と記されており、古代から須恵器土師器などの焼き物生産が盛んであった。その富裕な農業生産力や畿内への地理的な近さを背景にして朝廷を支える律令国として成長した。

国府宮

洞本業窯(瀬戸焼

陶栄窯(常滑焼

尾張七宝七宝焼

奈良時代

741年天平13年) - 聖武天皇による国分寺建立の詔に続いて、尾張国分寺に関し『続日本紀』において天平勝宝元年(749年)5月15日条、神護景雲元年(767年)5月20日条、神護景雲3年(769年)9月8日条、宝亀6年(775年)8月22日条にそれぞれ記載が確認される[4]

このうち神護景雲3年記事によると、当時の国府・国分寺・国分尼寺の位置は鵜沼川(現・木曽川)下流とされる[4][5]。『日本紀略元慶8年(884年)8月26日条では、尾張国分寺が焼失し、その機能を愛智郡定額寺の願興寺(現・名古屋市中区の尾張元興寺跡か)に移したと見える[4][注 6]。発掘調査においても、この焼失後の存続は認められていない[5]

尾張国分寺跡

真清田神社
尾張一宮

大縣神社
尾張二宮

中世

古代より引き続き水利工事が進められ(木曽川・長良川流域。隣国美濃国とともに耕地開発された)、国の面積は小さいながらも米の生産高は他国に比べ早くから向上した。
平安時代源頼朝の生誕地とされる熱田神宮大宮司藤原氏の別邸跡(誓願寺

平安時代末期になると熱田大宮司であった藤原季範源氏に接近し、娘の由良御前源義朝に嫁いで源頼朝を産んでいる。

また、季範の養女(孫娘)は足利義康(足利氏初代)に嫁いでおり、足利氏にも血脈を伝えている(足利氏8代目が室町幕府を開く足利尊氏である)。

治承5年(1181年)、「治承・寿永の乱」における「墨俣川の戦い」が尾張国と美濃国の国境にある墨俣川(現在の長良川)で行われた。

鎌倉時代

から鎌倉のある東国への往還道として鎌倉街道が整備され、東西の交通の要衝となる。主な経由地は以下の地域と推定される。[6]

黒田一宮市

萱津あま市

古渡名古屋市中区

鳴海名古屋市緑区


室町時代清洲城清須市

室町時代初期には美濃国の守護であった土岐氏などが守護を務めていた。

1400年頃に斯波義重(義教)が尾張守護に着任する。

斯波義重の父斯波義将は、越前福井県)と越中富山県)の守護であり、父から越前守護職を譲られた後、尾張(愛知県)と遠江静岡県)の守護となる。


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