尾崎紅葉
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紅葉は英語力に優れ、イギリスの百科事典『ブリタニカ』を内田魯庵の丸善が売り出した時に、最初に売れた3部のうちの一つは紅葉が買ったものだったという(ブリタニカが品切れだったのでセンチュリー大字典にした、とも。死期が近かった紅葉にとっては入荷待ちの時間が惜しかったようで、センチュリーの購入は紙幣で即決しており、内田魯庵はそれを評して「自分の死期の迫っているのを十分知りながら余り豊かでない財嚢から高価な辞典を買ふを少しも惜しまなかった紅葉の最後の逸事は、死の瞬間まで知識の要求を決して忘れなかった紅葉の器の大なるを証する事が出来る。(中略)著述家としての尊い心持を最後の息を引取るまでも忘れなかった紅葉の逸事として後世に伝うるを値いしておる。」と評している)[2]。その英語力で、英米の大衆小説を大量に読み、それを翻案して自作の骨子として取り入れた作品も多い。晩年の作『金色夜叉』の粉本として、バーサ・クレイの『女より弱きもの』が堀啓子によって指摘された。
年譜

1868年1月10日慶応3年12月16日)、 江戸に生れる。

1883年明治16年)9月、東京大学予備門に入学。

1885年(明治18年)

2月、硯友社を結成。

5月、「我楽多文庫」を発刊。


1887年(明治20年)4月、東京女子専門学校で漢学の教師のアルバイトをする。

1889年(明治22年)

4月、『二人比丘尼色懺悔』を刊行。

12月、読売新聞社に入社。


1890年(明治23年)帝国大学を退学。

1891年(明治24年)3月10日、樺島喜久と結婚。

1892年(明治25年)3月、「三人妻」を『読売新聞』に連載。

1893年(明治26年)

1月10日、長男弓之助が生れる(早逝)。

6月、「心の闇」を『読売新聞』に連載。


1894年(明治27年)

2月3日、長女藤枝が生れる。

同21日、父惣蔵死去。


1896年(明治29年)

2月、「多情多恨」を『読売新聞』に連載。

3月10日、次女弥生が生れる。


1897年(明治30年)1月、「金色夜叉」を『読売新聞』に連載。

1899年(明治32年)、健康を害する。6月に塩原、7月から8月にかけて新潟へ赴く。

1900年(明治33年)3月26日、三女三千代が生れる。

1901年(明治34年)

5月、療養のために修善寺へ赴く。

同20日、次男夏彦が生れる。


1902年(明治35年)、読売新聞社を退社し、二六新報に入社。

1903年(明治36年)10月30日、牛込区横井町(現在の新宿区横寺町)の自宅で胃癌により死去。

門下生

20歳代で多くの弟子を抱えた。特に泉鏡花徳田秋声小栗風葉柳川春葉の四人は藻門下(紅葉門下)四天王と呼ばれた。他、赤木巴山、新井雨泉、伊臣紫葉、生田葵山、石倉翠葉、泉斜汀、磯萍水、井上唖々、岩瀬雨鵲、大沢天仙、大田南岳、河合小烏、河島桐葉、北島春石、北田薄氷黒田湖山、篠山吟葉、篠田胡蝶、篠原嶺葉、柴田流星、鈴木苔花、瀬沼夏葉、高野柳翠、武田鶯塘、竹貫佳水、田中夕風、田中涼葉、谷活東、田村西男田山花袋筒井年峰、中山白峰、新田静灣、西村渚山、原口春鴻、藤井紫明、細川風谷、松田竹嶼、三島霜川水野葉舟、村山鳥逕、安場柳隈、山岸荷葉、山里水葉、山田旭南、山村水郭、羅蘇山人、秋元洒汀[3]らがいる。[4]
主な作品

『二人比丘尼色懺悔』(ににんびくにいろざんげ)(1889年)
岩波文庫、1952年 

『初時雨』昌盛堂 1889

『風流京人形』好吟会 1889

『此ぬし』春陽堂 1890

『新桃花扇・巴波川』吉岡書籍店 1890

『紅鹿子』春陽堂 1890

『伽羅枕』(きゃらまくら)(1890年、読売新聞)1891年春陽堂刊行。岩波文庫、1955年。 - お仙は、祇園の芸子と京在勤中の旗本水野石見守とのあいだの子だが、母の死後、米相場師西岡屋に養われ、贅沢に育てられる。十二歳で養家が破産し、「玉の輿への踏台」と島原の禿に売られ、十六歳で大阪の隠居に身請けされ、そして死別し、京在勤中の武士の妾になる。父に会いたい願いから、せがんでともに江戸に下るが、まもなく忘れ形見ひとりを残してその武士は死亡する。途方に暮れて石見守邸を訪ねると、父は十七年前に死去していた。大身の奥方になっている異母姉が、自分を懐かしがっていると聞き、上野山下で待ち合わせしていると、供の者に叱られて、駕籠に乗っている姉に近寄れない。二十二で、生きるためと、反発と対抗心から赤子を里子に出し、吉原に身を沈め、花魁佐太夫になる。波乱万丈の年月を遊女の意気と手管で送り、二十八で甲府に落ち、挙げ句の果てに鰍沢で六十七のハンセン病の老人の召使いになり、「作りける罪の無量なるを消滅せしむるため」の心願で、親切に看病し、全快させる。ふたたび男は持たぬと黒髪を切り、六十二のきょうまで団子坂の寮にこもって三十四名の遊客の亡魂を祀る。

『夏小袖』春陽堂 1892

「おぼろ舟」「むき玉子」1892年 2作合わせて明治25年2月単行本「二人女」として刊行。「おぼろ舟」 - 1890年3月読売新聞。維新前には旗本だった父に死なれて母と2人のお藤の家は、その日暮らしにも困るようになり、お藤が身を売るほかなくなる。せめてと妾の口を求めて口入屋でお目見えをすると、松本が即座に世話をしようと話が決まり、通ってくることになる。お藤は18の今まで知らなかった情愛を初めて味わい、夢にもうつつにも恋しい人が忘れられなくなる。しかしある夜、5、6日忙しくて来られぬと言って別れてから、松本はいつまでも姿を見せない。お藤は待ち焦がれてついに恋の病に日ごとにやせてゆく。母が心を痛めて松本の住まいで聞きただすと、社用で北海道に行ったという。そして浮気で女をもてあそんだ松本が、旅から帰り、お藤の真実心を知り、かけつけたときは可憐なお藤は焦がれ死にをした後であった。「むき玉子」 - 1891年1月読売新聞。パリで6年間修行した画家大久保蘭渓は、帰国後4年になるのに、何一つ世に出さない。弟子蘭山に来年の大共進会までにと勧められてその気になる。或る日の夕方、散歩の途中、垣根ごしに若い女の行水を見て、これこそは好図案であると制作にとりかかるが、思うように描けず、苦慮していると、蘭山はかねて目をつけていたお喜代の両親と交渉する。


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