少弐嘉頼
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永享8年(1436年)2月には、幕府の命で九州に下向した京極持高の援軍を得た持世と交戦した[8]。同年6月には、持世との戦いに勝利している[9]

永享12年(1440年)、6代将軍足利義教の計らいで嘉頼・教頼兄弟と持世との間で和睦となり[10]、少弐氏の存続が認められた。これは、持世が少弐氏と同盟関係にある対馬の宗氏や、窮乏のため嘉頼が倭寇まがいの活動を行っていたとされる李氏朝鮮との関係悪化を懸念したためとされる。

永享13年(1441年)、死去。享年21[4][5]
脚注^ 永享13年(1441年)に21歳で死去していることから、生年は逆算して応永28年(1421年)と推測される。
^ 『史料綜覧』第7編之907 706頁
^ なお『史料綜覧』では死去を「嘉吉元年1月9日」としているが、嘉吉元年は2月17日からなので永享13年の誤植と思われる。
^ a b c 『歴代鎮西要略』
^ a b 『北肥戦誌』
^ 『史料綜覧』第7編之907 637頁
^ 『史料綜覧』第7編之907 652頁
^ 『史料綜覧』第7編之907 657頁
^ 『史料綜覧』第7編之907 661頁
^ 『史料綜覧』第7編之907 697頁

出典

『後花園天皇紀』(永享六年自五月至六月、永享七年八月)

看聞日記

『歴代鎮西要略』

建内記

『北肥戦誌』










少弐氏当主(1433-1441)


資頼

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