少将
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^ 現在では、陸上自衛隊以外に台湾、ポルトガル、そして南米ではブラジル等の一部の国にその例が見られる。また、かつてナポレオン戦争時、准将制度を持つイギリス陸軍でも、第2騎兵旅団長であったウィリアム・ポンソンビー将軍のように少将の旅団長も少なくなかった。
^ 政体書では軍務官の判官事の職掌は神祇官の判官事の職掌に関する規定に准ずるとしているが、海陸軍将の職掌に関する定めはない[9]
^ 四条隆謌[10]西園寺公望[11]烏丸光徳[12]壬生基修[12]坊城俊章[13]四辻公賀 [14]などが三等陸軍将に任ぜられた。職員録によればこの他に五条為栄[15]久我通久[16]鷲尾隆聚[17]正親町公董[18]が軍務官陸軍局の三等陸軍将として掲載されている。
^ 三等陸軍将には公卿やその子弟が任ぜられ[注 4]戊辰戦争において鎮撫使[19] [20]江戸府知事[21]参謀[21] [20]、関八州監察使[21]総督[22]などを命ぜられた。なお、明治2年7月調べの職員録では、軍務官海軍局の三等海軍将として掲載されているものは一人もいない[23]
^ 職員令では兵部大丞の職掌は民部大丞などの職掌に関する規定に准ずるとしているが、海軍少将や陸軍少将の職掌に関する定めはない[26]
^ 1869年7月24日(明治2年6月16日)に公卿・諸侯の称を廃止して華族に改称した[29]
^ 明治2年9月調べの職員録には久我通久、正親町公董、五条為栄、四条隆謌、鷲尾隆聚、坊城俊章が陸軍の少将として掲載されており、烏丸光徳は少将としては掲載されていない[27]
^ 明治2年9月調べの職員録で陸軍の少将として掲載されている者[27]は、明治2年7月調べの職員録で軍務官陸軍局の三等陸軍将として掲載されていた者[28]とほぼ同じで堂上華族[注 7]やその子弟が任ぜられた[注 8]。なお、明治4年6月調べの職員録では、海軍少将として掲載されているものは一人もいない[30]
^ 少将は中国の古典語には存在せず清末以前の文献からも見つけられないため、日本語による造語である可能性が高いと推測される[31]。荒木肇は、律令制の官職名が有名無実となっていたことを踏まえて、名と実を一致させる。軍人は中央政府に直属させる。などの意味合いから近衛府から将官の官名を採用したのではないかと推測している[32]
^ 1870年6月1日(明治3年5月3日)には、横須賀・長崎・横浜製鉄場総管細大事務委任を命ぜられた民部権大丞の山尾庸三に対して、思し召しにより海軍はイギリス式によって興すように指示している[33]
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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