少女漫画
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その後、1985年、バラエティ番組「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」の「お嬢さまを探せ」のコーナーによって若者の「お嬢さまブーム」[注 20]が起きて[353][354]すぐに、ソ連の天才ピアニストのスタニスラフ・ブーニンが来日して人気となり、ブーニンはその追っかけの対象となったとされる(ブーニン現象)[354]

不良ブームも起きている。1968年よりアメリカの暴走族映画の影響を受けて日本映画からも「不良番長」シリーズが登場し、1971年にはスケバン物の「女番長シリーズ」も登場し、1973年にはヤクザ映画まで仁義物ではない「実録シリーズ」(「仁義なき戦い」など)が登場した。1970年代には不良少年がオートバイを手に入れ暴走族となって広域で徒党を組むようになり、また、1970年代後半には中学校高等学校において先生などに対する校内暴力が増えていき[355]問題となった。1980年代にはロングスカートが流行し、「なめ猫」や尾崎豊も登場、不良に憧れる少女が増加していていった。そんな空気の中で、少女漫画では1977年に『プチコミック』で不良ヒーローを据えた『ハイティーン・ブギ』(原作:後藤ゆきお、漫画:牧野和子)が登場し[356]、1982年に映画化された。また1981年には不良風キャラの登場する少年漫画「Dr.スランプ」がテレビアニメ化されて人気となり、『りぼん』でもそのアニメの付録が登場し[357]、翌1982年には『りぼん』からも不良ヒーロー物のメディアミックス『ときめきトゥナイト』(池野恋)が登場して人気となった[358][357]。1985年には『別冊マーガレット』からも暴走族物の『ホットロード』(紡木たく)が登場しヒットした[注 21]

また、原宿では1977年に歩行者天国(ホコ天)が設けられ、その後、派手な衣装を提供する「ブティック竹の子」やフィフティーズ・ルック(1950年代アメリカファッション[359])を提供する「ピンク・ドラゴン」(「クリームソーダ」ブランド[360]など)が開業されると、ホコ天にディスコを踊る竹の子族ロカビリーを踊るローラー族が登場した。その後、原宿のホコ天を巻き込んだバンドブームがあり、少女漫画では『愛してナイト』(多田かおる、1981年)、『愛の歌になりたい』(麻原いつみ、1981年)、『プラスティック・ドール』(高橋由佳利、1983年)、『ダイヤモンド・パラダイス[361]槇村さとる、1984年)、『アンコールが3回』(くらもちふさこ、1985年)、『3-THREE-』(惣領冬実、1988年)などのバンド物が登場した。

そのほか、日本でもギャルが台頭した。1975年にアメリカ西海岸(ウェスト・コースト)のスポーツ文化(スキー、テニス、ドライブ、サーフィンなど)を特集する男性誌「POPEYE」が登場して少年に人気となり[362]、1978年には少女向けでもアメリカ西海岸のギャル文化を特集をする「ギャルズライフ」(主婦の友社)が登場した[注 22][363]。1980年にはその増刊として少女漫画誌の『ギャルズコミック』(後の『ギャルコミ』)も登場している。また、旧来の少女漫画誌でもアメリカ西海岸を舞台したものが多数登場して人気となっていった。これには1978年より「別冊少女コミック」で連載されたサンディエゴ舞台の『カリフォルニア物語』(吉田秋生[364]、1980年より「LaLa」で連載されたロサンゼルス舞台の『エイリアン通り』(成田美名子[364][349]、1981年より「別冊少女コミック」で連載されたロサンゼルス舞台の『ファミリー!』(渡辺多恵子)などがある[364][349]

しかしながらギャルズライフはだんだんヤンキー路線を取るようになっていき、1980年代初頭に新たなギャル雑誌「Popteen」「キャロットギャルズ」「まるまるギャルズ」などが登場する[365]と、1984年にはギャル雑誌を標的とした図書規制法が立案され、法案が成立しなかったもののギャル雑誌の衰退するきっかけとなった。


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