また学園漫画では1965年に『りぼん』で『5年ひばり組』シリーズ(巴里夫)が[298]、1972年に『りぼん』で『6年○組○○番』(巴里夫)が登場した。その後、1974年以降、児童文学では「ミス3年2組のたんじょう会」(1974年)、「四年三組のはた」(1975年)を初めとする「○年○組もの」が多数登場するようになっていった[299]。
そのほか、1960年代のエコノミックアニマル化への反省から1970年代には人間性回復が謳われるようになった。音楽では四畳半フォークなどの生活派や叙情派のフォークソングが人気となったほか、歌詞に「愛」を入れた歌が増加していった[300]。また前述の少女アニメ『魔法少女サリー』でも「愛と希望」が強調されていた[301]ほか、1960年代後半には恋愛結婚が見合い結婚を上回った[302]。少女漫画では『りぼん』に愛の力を強調する一条ゆかりの作品群が登場し[303]、その中から1972年の『りぼん』別冊付録に結婚しても「心はいつも少女のようで」居たいとする『9月のポピィ』(一条ゆかり)が登場した[304]。また『りぼん』では『乙女ちっくマンガ』と呼ばれる日常の微妙な少女的センスとしての少女趣味的な作品群も登場して支持されていった。乙女ちっくマンガの代表的な作家には陸奥A子、田渕由美子、太刀掛秀子が居る。 1974年には高校進学が90%に達し[305]、1970年代には高学歴社会
生活満喫と家庭崩壊の時代
また、1970年代以前より子供向け番組の出演者「水森亜土」(あどタン)が人気となっており、あどタンの使う亜土文字や亜土言葉は少女の間で今風と評価されていた[310]。1970年代の少女漫画では『別冊少女フレンド』に『UッK-UK-亜土ちゃん』や『あなたと亜土たんのおてまみ広場』[311]が連載されていた。また1960年代後半に「亜土ネコミータン」などの水森亜土イラストのキャラクターグッズを発売していた山梨シルクセンターが1970年代にサンリオとなって台頭し[312][313][314][315]、1971年にはサンリオが新宿でファンシーグッズのショップを構え[316]、1974年にはオイルショックによる紙不足を見越して事前に紙を調達していたサンリオが安価にファンシーノートを提供してブームを起こした[317]。これらの流れによって若い女性の間では「かわいい」「ファンシー」がブームとなっていった[318]。一方、少女漫画誌『りぼん』でもたびたび水森亜土のイラストのグッズを付録にしており[319]、1974年にはアイドルグッズの付録を減らして少女漫画絵のかわいいグッズを付録するようになった[320][321]。また『なかよし』でもそれに対抗していき[322]、ファンシーグッズの増加とおこづかいの制約によって少女漫画の輪番購入による回し読みと付録の交換文化が生まれ[322]、またグッズの贈り合いのほか、お菓子や手紙などの贈り合いも一般化していった[323]。このファンシーグッズの流れは80年代消費社会へと続いていくこととなる[324]。