少女漫画
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新人の漫画掲載は増刊を中心に行われており(「りぼん」では「りぼんスペシャル」、「ちゃお」では「ちゃおデラックス」、なかよしでは「なかよしラブリー」(休刊)など)、本誌の連載へと至るのは一部の作家のみとなっている[13]

なお、少女漫画家にも特定雑誌への専属契約は存在する(種村有菜など[14])が、専属契約せずにマルチに活躍する作家も存在している(双葉陽など)。1980年代以降は少女漫画家が青年漫画少年漫画4コマ漫画に転向したり兼業する例も多く見られる(#歴史節も参照)。
歴史
黎明期

この節の加筆が望まれています。

大正時代以前よりも少女誌では少女主人公の絵物語が存在していた。

西木富士子著『ポンチ書 モデル』1910年

小川治平著『ミケ子ロマンス』(「少女画報」1920年)

一方、新聞漫画では1902年1月に東京五大新聞の一つ「時事新報」の日曜版が北澤楽天による漫画欄を設け[15]、同年3月にそこから子供主人公の漫画が登場し[16]、同年9月には北澤楽天が長期連載となる「凸坊」シリーズの連載を開始した[17]ものの、少女主人公の新聞漫画は長らく存在していなかった[18]大正デモクラシー大正自由教育運動の中で、1921年には東京朝日新聞の漫画欄「漫画の国」でおしゃれ少女が主人公の片割れの8コマ漫画「リン子と金丸」(山田みのる)が登場し、次いで翌1922年には國民新聞でおしゃれ少女が単独主人公の4コマ漫画「みい子」(前川千帆)が登場した[19]ものの、どちらも短期間の連載となっていた[20]
お転婆少女の漫画の登場

前述の「時事新報」では1899年に創刊者の福沢諭吉が「婦人は静にして奥ゆかしきこそ.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}頼母(たのも)しけれ。所謂おてんばは我輩の最も賤しむ所なれども(後略)」としてお転婆を好ましくないものとしていた[21]ものの、当時人気となっていた西洋の翻訳少女小説では当時の西洋のジェンダー規範による物語の制約を回避するために「お転婆少女」(「少年のような少女」)を主人公とするのが定番となっていた[22]

前述の「凸坊」シリーズの連載を行っていた北澤楽天らは風刺新聞「團團珍聞」や「滑稽新聞」による風刺漫画ブームが起きると1905年に時事漫画誌「東京パック」を立ち上げて時事新報社を辞職した[15][23]ものの、1912年の東京パックの経営権問題とその後継として設立された楽天社の失敗[注 6][15][23]により時事新報社へと戻って「凸坊」シリーズの連載を再開した[24]が、その連載中の北澤楽天が1918年頃に立ち上げた漫画塾「漫画好楽会」[15]からお転婆少女の漫画が登場することとなった。

1923年4月、前述の「漫画好楽会」出身の麻生豊が報知新聞において少女主人公の「ダダ子」の連載を開始し[25]、次いで翌1924年3月には同じく「漫画好楽会」出身の長崎抜天が「時事新報」夕刊において女学校に通う少女を主人公とする漫画「ひとり娘のひね子さん」の連載を開始する[26][27][28][29]。1928年8月、アムステルダムオリンピック人見絹枝が日本人女性初のメダリストとなると、北澤楽天は同年11月に「時事新報」日曜版の別冊付録「時事漫画」においてお転婆少女が主人公の「とんだはね子嬢」の連載を開始し[30][31][32][33][34]、翌1929年3月にその連載を前述の長崎抜天が引き継ぐ[32]

その後、少女誌に連載漫画が登場することとなる。1932年には良妻賢母の育成を編集方針とする『少女倶楽部[35]大日本雄弁会講談社)に少年漫画「のらくろ」で有名な田河水泡の『スタコラサッチャン』が連載され始め、1935年には同誌に田河水泡の元内弟子である倉金章介の『どりちゃんバンザイ』が連載されはじめた。


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