少女歌劇
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

大正時代になると民主主義の台頭から女性・子供が着目されるようになり、新たな商業施設である百貨店は、子供を狙った事業を展開する[15]。この流れの中で、1910年(明治43年)、三越少年音楽隊が結成されたのを皮切りに、百貨店の余興のため数多くの団体が結成された。1911年(明治44年)、白木屋少女音楽隊が結成され、店内で音楽演奏や演劇上演を行った[16]。これが日本初の「少女歌劇」とされている。ただし、この前年1910年(明治43年)に、大阪の南地大和屋が技芸養成所を開設し、少女による演目を企画していたとされる[17]

そして、三越少年音楽隊に着想を得て、1914年(大正3年)、宝塚新温泉に宝塚少女歌劇が登場する。宝塚の成功の影響から、大正時代から昭和初期にかけては多くの少女歌劇団が各地に誕生して特に盛んであった。宝塚に倣い、電鉄が開発・経営する郊外の娯楽施設に併設する形で、少女歌劇団が多数結成されている。宝塚少女歌劇団(兵庫県川辺郡小浜村(現・宝塚市))、そして1922年(大正11年)に誕生した松竹楽劇部から発展した大阪松竹少女歌劇団(OSSK・大阪市)と松竹少女歌劇団(SSK・東京市)によるものは日本の三大少女歌劇と呼ばれて大きな人気を獲得した。

誕生当初は、日舞・洋舞のほか「お伽歌劇」と呼ばれるおとぎ話(童話・民話)を題材にした歌付きの短い芝居が上演されていた。この時期の化粧は、伝統的な白塗りである。1926年に松竹楽劇部が和物レビュー「春のおどり」を上演するなど、初期には日舞をベースとした和物の比重が大きかった。

ところが、宝塚少女歌劇団が1927年(昭和2年)9月初演した「モン・パリ」(岸田辰彌作)は西洋風の化粧に露出の高い衣装・ラインダンス・階段を活用したフィナーレなど画期的な作品となり、少女歌劇に大きな転機をもたらした。この成功により洋物レビューが人気を博するようになり、翌1928年(昭和3年)には松竹楽劇部も独自に洋物レビューを確立させて追随した。同年、松竹楽劇部が東京公演を行い、これが東京松竹楽劇部創設のきっかけとなった。

さらに宝塚で1930年(昭和5年)8月初演のレビュー「パリゼット」(白井鐵造作)が「モン・パリ」以上のヒットとなって以来、華やかなレヴュー(ショー)やミュージカル(芝居)が演目の中心となっていった[18]

1930年(昭和5年)、宝塚の「パリゼット」にて本格的な男役が誕生し、他の団体も追随した。特に、SSKの水の江瀧子オリエ津阪が同年のうちに短髪にし(断髪)、絶大な人気を集めて一世を風靡。宝塚では1932年(昭和7年)になって門田芦子が断髪した。さらに1930年代からは演目に恋愛が取り入れられるようになり、1934年(昭和9年)ごろには、中心ファン層が女学生(少女)へと変化した。

しかし、やがて来た災害や第二次世界大戦により多くの歌劇団が活動困難となった。戦後まで残ったのはほぼ三大少女歌劇のみとなった。これらの歌劇団は技能をより高度なものにするとともに、1940年代には名称から「少女」をはずし、宝塚少女歌劇団は宝塚歌劇団に、大阪松竹少女歌劇団は大阪松竹歌劇団(OSK)に、松竹少女歌劇団は松竹歌劇団(SKD)へと改名し、それぞれ独自に発展していった。
男女共演化の試み

1938年(昭和13年)、松竹楽劇団(SGD)が旗揚げされ、少女歌劇スターと男性出演者によるレビューが、映画上映のアトラクションとして上演された[19]。OSSK及びSSKから複数のスターがSGDに移籍し、また現役団員も出演したが、この試みは1941年(昭和16年)にSGD解散によって終了した[19]

また、終戦直後に、宝塚歌劇団男子部が設けられたが、本公演出演には至らずに1954年(昭和29年)に解散した。
戦後の繁栄と衰退1956年(昭和31年)、大阪松竹歌劇団「春のおどり」を上演中の大阪劇場

戦後は1950-60年代にかけ繁栄した。SKDは浅草の国際劇場を本拠地に派手なレビューを上演し人気を集めた。また、劇団員が系列の松竹へ映画女優として引き抜かれることも多かった[注釈 4]。OSKは大阪劇場を中心にレビューを上演。1957年(昭和32年)にはアメリカ映画「サヨナラ」のレビューシーンに出演した。一方、宝塚は海外から振付家や演出家を招聘し、1960年代には海外ミュージカル「ウェストサイド物語」「回転木馬」の日本初演を行った。

こうした中、『婦人公論』誌では、1954年2月号「ライバル物語」と冠した記事の中で「宝塚歌劇対松竹歌劇」を取り扱った。

1950年までは姉妹関係にあったOSKとSKDが合同公演を行った。また1963年(昭和38年)には単発企画ではあるものの、宝塚・OSKを始めとするレビュー劇団[注釈 5]が合同で公演を行ったり、OSKが宝塚の演出家だった横澤英雄を招聘したりと、互いの交流も盛んに行われていた。

しかし、やがて娯楽の多様化、特に家庭用テレビの普及から、上演に多額の経費を要する少女歌劇は、三大少女歌劇を含め多くの団体が経営難に苦しむこととなった。OSKは、1967年(昭和42年)の大阪劇場閉鎖によって大阪中心部での活動拠点を失い、さらに1971年(昭和46年)に近畿日本鉄道の子会社となって以降奈良県あやめ池遊園地を本拠地とした。また1972年(昭和47年)には宝塚は定年制度を導入した。SKDもこの時期にオーケストラ演奏を取りやめた。
宝塚歌劇団の復活と影

1972年(昭和47年)、男装の麗人が活躍する少女漫画ベルサイユのばら」が社会現象となるほど大ヒットしており、1974年(昭和49年)宝塚歌劇団がこれを舞台化するとたちまち宝塚歌劇ブームを巻き起こした。宝塚歌劇団は全国な知名度を高め、また少女のファンが急増したりと窮地から脱した。付属の宝塚音楽学校の志願倍率も跳ね上がり、多くの人材が集まったため、その後の宝塚歌劇団を支える地盤となった。また1970年代後半より宝塚歌劇団では円形の羽を背負うのが定番となるが、後にOSKも模倣した。

1970年代、遊園地:那須ロイヤルセンターの専属劇団である那須ロイヤルダンシングチームが、宝塚歌劇団やOSKのスタッフを招聘してレビュー上演を新たにはじめた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:91 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef