その他に、
宝塚歌劇(宝塚歌劇団のみ)
歌劇(主にOSK日本歌劇団)
がそれぞれ用いられるが、1990年代以降
女性歌劇/女性歌劇団
という言葉が、報道においてOSKを紹介する場合を中心に用いられている[9][10][11][12]。
少女歌劇はオペラの翻訳語としての歌劇(あるいはオペレッタの翻訳語としての喜歌劇)とは全く異なる形式ではある。該当団体の多くが「歌劇団」を名乗り、専門劇場や『歌劇』(1918年(大正7年)創刊 -)・『少女歌劇』(1933年(昭和8年)創刊 - 1939(昭和14年)廃刊)・『松竹歌劇』(1950年(昭和25年)創刊 - 1951年(昭和26年)廃刊)という名の専門誌も存在する(むしろ日本にはオペラに関してこうした名の劇場や雑誌は存在しない)。 大正から昭和初期にかけては、白塗りの化粧でのお伽歌劇や喜歌劇などが演目の中心であり、日舞も盛んに上演されていた。ところが、宝塚少女歌劇団が1927年(昭和2年)9月初演した「モン・パリ」の成功により、西洋風の化粧・華やかなレビューおよびミュージカルが演目の中心となった。戦後になると宝塚は海外ミュージカルにも数多く取り組んだ。 これらレビューには洋物と日本物が存在するが、特に日本物は西洋音楽に合わせて日舞を踊り、少女歌劇独特の演目である。OSK日本歌劇団では、松竹座・南座のメイン公演は必ず和洋二本立てである等、現代でも日本物の比重が大きい。一方、宝塚歌劇団では日本物はレビューおよび芝居とも減少傾向にある。 主に義務教育修了以上の未婚の女性によって構成され、多くの団体において、団員の序列は厳格なものであり、厳しい上下関係が存在する。OSKとSKDには幹部制度と昇進試験があった。また出演者に対する呼称には「劇団員」「技芸員」の他「生徒」(宝塚のみ)が用いられ、ふつう「女優」とは呼ばない。 宝塚歌劇団・OSK日本歌劇団および松竹歌劇団(解散)等は義務教育修了後の女性に付属の養成機関で、洋舞(バレエ・ジャズダンス・タップダンス等)・日舞・声楽などの教育を行った上で劇団員として採用した。 特にスポンサーが大企業である三大少女歌劇は、かつては高待遇(学費無料・寮設備あり・定年無しなど)で劇団員を抱えていたが、いずれもその後の経営悪化により縮小している。 演者が女性のみであるため、男性役の男役と女役からなるが、男役・女役の区別はかつては厳密ではなく、宝塚の南悠子、SKDの小月冴子、OSKの秋月恵美子等のように男役トップスターでありながら女役を演じる場合もあった。今日ではトップスターが男女双方を演じることは稀であり、それも特定の演目・役に限られる[注釈 1]。 芸名は、各劇団のルールに従い美的なものが付けられている[注釈 2]。しかし複数の劇団間でも、同字同音または異字同音[注釈 3]などの似た芸名もあり得る。 SKDには本名を公表する場合があり、OSKは本名を芸名にすることが可能である。なお、ほとんどの劇団で年齢は非公表となっている。 かつては、共に松竹傘下で姉妹関係にあったOSKとSKD間以外にも、複数の団体間で交流があった。例えば、天見千草
概要1932年(昭和7年)、松竹楽劇部「春のおどり」
演目
出演者1947年(昭和22年)、宝塚歌劇団「ファイン・ロマンス」
男役は少女歌劇最大の特徴である
スタッフ男役(芦原邦子)と娘役(園井恵子)(1934年、宝塚少女歌劇団)『アルルの女』。
出演者は少女を含む女性であるが、創立者・団長・脚本家・演出家などの主要なスタッフは、男性がほとんどであった。1982年(昭和57年)になって、OSK日本歌劇団の座付演出家として吉峯暁子が「夏のおどり -妖精三銃士-」でデビューし、少女歌劇史上初の女性演出家が誕生した。なお、宝塚歌劇団初の女性演出家は、1998年(平成10年)に「Icarus」でデビューした植田景子である。また、演出家専業ではないが、宝塚のトップスター:春日野八千代は1956年(昭和31年)の「ローサ・フラメンカ」以降、演出も担当した公演がある。
今日でも、複数の団体間で、演出家・振付家などが重複しており、演目・振り付けの類似点は皆無ではない。 少女歌劇の演出家・振付師として複数の団体に携わった大谷盛雄は、女性のみのレビューとミュージカルの違いについて「ダンスが違い、(レビューでは)男役の見た目が重視される」とし、女性歌劇の特徴や魅力について「男役がいなければ歌劇の意味がない」「現実の男性ではない、夢の世界」と、男役の存在が重要である旨を語っている[13]。また、バックダンサーの若手出演者が、ラインダンスにおいては必ず顔が見えるよう配慮し「一般の商業演劇と異なる優しさ」が重要である旨も、発言している[13]。
ミュージカル・商業演劇との違い
歴史白木屋少女音楽隊:1911年(明治44年)、結成直後。