小麦
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しかし、製粉技術が進歩し石臼が登場すると、粉食により美味さが増し、グルテンを持ち様々な料理へと加工することが容易なコムギがオオムギに代わって最重要の作物となっていった[9]。製粉のための水車を「人類初の機械」の発明とする説もある。

聖書の冒頭の書である『創世記』(30章14節)にすでに小麦が登場する。その他の書にも頻繁に「麦」や「小麦」が登場し、重要な作物であったことがわかる。

中国への小麦の伝来は四千年前頃(紀元前2000年頃)と考えられていて、粉食用として広く栽培される様に成ったのは三千年前頃(紀元前1000年頃)である。これは小麦が冬作物で、の端境期に収穫されたためで、七千年前頃から栽培が行われていたとされる大麦とは対照的である[10]

中世にはヨーロッパでは既にコムギが最も重要な作物となっていたが、特に農民や下層の都市住民にはコムギだけで作られたパンは贅沢品であり、オオムギやエンバクライムギといった安価な穀物が食生活の中心となっていた[11]。一方で栽培されるコムギにおいても、パンコムギはエンマーコムギやスペルトコムギよりも優勢であり、より高く評価されていた。パンコムギには易脱穀性があり、難脱穀性のエンマーコムギやスペルトコムギに比べ脱穀の手間が少なかったためである[12]

大航海時代に入ると、新大陸に移住したヨーロッパ人植民者たちが故郷からコムギを持ち込んで栽培し、新大陸においても基幹食料となっていった。アメリカ合衆国カナダオーストラリアといった現在のコムギ主要生産国にコムギが持ち込まれたのもこの時期のことである。また、18世紀頃からヨーロッパでは徐々に市民の生活が向上し、また農法の改善や生産地の拡大によってコムギ生産が拡大するとともにコムギが食生活の中心となっていき、量の面でもライムギにかわってコムギが中心となっていった[13]

20世紀後半、ノーマン・ボーローグらによる小麦農林10号を親としたコムギの短稈種の研究が進められ、肥料を多量に使用しても丈が高くならず、倒伏の危険なしに大量の収穫が見込める品種が次々と開発された。この研究から緑の革命がおこり、これによって多収量の上安定した収穫が望める新品種が発展途上国を中心に普及し、メキシコなど多くの発展途上国でコムギは大幅な増収となり、生産性も大幅に改善された[14]。その一方、旱魃など災害による地域的な不作もなくなってはいない。
日本

中国大陸経由で直接日本に伝来されたと考えられている[15]日本でも約2000年前の遺跡から小麦が出土しており、伝わったのはそれから遠くない弥生時代であると考えられている。奈良平安期には五穀の1つとして重視された(『和名類聚抄』には「古牟岐(コムギ)・末牟岐(マムギ=「真麦」)」の名で伝わる)[16]。一方で収穫前の大麦・小麦の青草を貴族や有力豪族が農民から買い上げて馬の飼料にすることが行われ、当時の政府がこれを禁止する太政官符が度々発令(751年、808年、819年、839年)されており、稲や粟と比較して食用作物としての認識が十分に広まっていなかったとする見方もある。ただ、これには当時の日本に製粉用の石臼がほとんど普及していない、という事情があった。柔らかい胚乳が硬い表皮で覆われた構造の麦粒を食用にするには、全体をひき潰してから小麦粉とふすまに分離する必要がある。回転式の石臼を持たない庶民は、搗き臼を使っての非効率な製粉作業に甘んじるしかなかった。その手間を嫌い、手早く利益を得る方法として小麦を飼料用に販売したとも考えられる。それ以降もコムギは全国で栽培され続けたが、製粉技術が未発達だったために使用法が限定されていた。それでも鎌倉時代にはいって二毛作が始まると、稲の裏作作物としてコムギが採用され、室町時代に入ると米に比べてムギの税率が軽かったために裏作でのコムギの栽培量が急速に増加した[17]

日本では製粉技術の発達が遅れたため、小麦その他「粉」を使用した食品は長らく贅沢品とされた。庶民がうどん饅頭ほうとうすいとんなどの粉食品を気軽に口にできるようになったのは、石臼が普及した江戸時代以降である。稲の裏作として麦の生産が盛んに行われるようになり、粒のまま食べるオオムギと粉にして食べるコムギがともに食用として栽培された。都市では小麦粉を使用したうどんや天ぷらといった料理や饅頭などの和菓子の消費が大きくなる一方、自家消費の割合の大きい農村では製粉という手間のかかるコムギは日常ではなかなか口にできるものではなかった。このため、コムギなどの粉食はハレの日の料理として扱われることが多かった。

明治時代に入り、欧米からパンなど様々なコムギ料理が伝わってくるとコムギの消費も増大した。明治時代初期には36万ヘクタールだった栽培面積は、大正時代には50万ヘクタール、最も栽培面積の大きくなった第二次世界大戦中には70万から80万ヘクタールにのぼるようになった。第二次世界大戦後には学校給食がはじまり、パン主体の給食と食の欧米化、多様化はコムギの消費をさらに拡大させた。一方で、アメリカなどから安いコムギが大量に入ってくるようになったことや二毛作自体の衰退、そして1963年の三八豪雪と夏の多雨により小麦生産が大打撃を受けたことにより、栽培面積は急速に減少して、1963年には栽培面積60万ヘクタール、自給率20%前後だったものが、1973年には栽培面積は7.5万ヘクタールにまで減少し、自給率はわずか4%となった[18]。その後、減反政策によってコムギの生産が奨励され、生産はやや復調傾向にある[17]。2005年には栽培面積は21万ヘクタール、自給率は14%となっている[18]
用途様々なコムギ食品

収穫された種子は基本的には製粉して小麦粉として使われる[19]


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