空海筆の額字について「美福門は田広し、朱雀門は米雀門、大極殿は火極殿」と非難したという[15]。これは、空海が筆力・筆勢を重んじたのに対して、道風は字形の整斉・調和を重要視したという書に対する姿勢の違いや、道風の書が天皇や貴族に愛好され、尊重していた自負によるものと想定される[16]。
晩年は健康を壊して随分と苦しんだ[17]。中風に苦しんでいたらしく、65歳ぐらいの頃から目が悪くなり、67歳ぐらいの頃には言語までが不自由になったという。その頃からの道風の文字はのびのびした線ではなくなり、後世ではこれを「道風のふるい筆」といっている。
勅撰歌人として『後撰和歌集』に5首の和歌作品が採録されている[18]。 道風の作品は、雄渾豊麗、温雅で優れ、草書は爽快で絶妙を極め、その筆跡を「野跡」という。醍醐天皇は深くその書を愛好され、醍醐寺の榜や行草法帖各一巻を書かせた。 古来、道風を伝承筆者とするが、疑問視されているもの 道風が、自分の才能を悩んで、書道をあきらめかけていた時のことである。ある雨の日のこと、道風が散歩に出かけると、柳に蛙が飛びつこうと、繰りかえし飛びはねている姿を見た。道風は「柳は離れたところにある。蛙は柳に飛びつけるわけがない」と思っていた。すると、たまたま吹いた風が柳をしならせ、蛙はうまく飛び移った。道風は「自分はこの蛙の努力をしていない」と目を覚まして、書道をやり直すきっかけを得たという。ただし、この逸話は史実かどうか不明で、広まったのは江戸時代中期の浄瑠璃『小野道風青柳硯』(おののとうふうあおやぎすずり : 宝暦4年〈1754年〉初演)からと見られる[注 3]。その後、第二次世界大戦以前の日本の国定教科書にもこの逸話が載せられて多くの人に広まり、知名度は高かった[注 4]。 この逸話は多くの絵画の題材とされ、花札の札の一つである「柳に小野道風」の絵柄もこの逸話を題材としている[注 5]。また現在では東名高速道路・名古屋第二環状自動車道上での春日井市のカントリーサインの絵柄にこの絵が採用されている。
主な作品
真跡『智証大師諡号勅書』(東京国立博物館蔵、国宝)『屏風土代』(部分、三の丸尚蔵館蔵)『玉泉帖』(巻頭部分、三の丸尚蔵館蔵)
三体白氏詩巻 - (国宝) 正木美術館蔵
白氏文集を楷行草の各書体で揮毫したもので、八紙を一巻として、巻第五十三の詩六首分が現存する。ちょうど二首分ずつ、楷・行・草の順に調巻されるが、享禄二年(1529年)の伏見宮貞敦親王の識語によれば、当時すでに、楷書二首、行書二首、草書二首という現在の形であったことが分かる。
智証大師諡号勅書 - (国宝)東京国立博物館蔵
寛平3年(891年)、少僧都法眼和尚位で寂した延暦寺第5世座主円珍が、36年後の延長5年(927年)、法印大和尚位を賜り、「智証大師」と諡されたときの勅書である。文は式部大輔藤原博文
屏風土代 - 三の丸尚蔵館蔵
土代とは「下書き」の意で、内裏に飾る屏風に揮毫する漢詩の下書きである。
延長6年(928年)11月、道風が勅命を奉じて宮中の屏風に書いたときの下書きで、大江朝綱が作った律詩八首と絶句三首が書かれている。署名はないがその奥書きに、平安時代末期の能書家で鑑識に長じていた藤原定信が、道風35歳の書であることを考証しているので、真跡として確実である。巻子本の行書の詩巻で、料紙は楮紙である。処々に細字を傍書しているのは、その字体を工夫して様々に改めたことを示している。書風は豊麗で温和荘重、筆力が漲り悠揚としている。
玉泉帖(ぎょくせんじょう) - 三の丸尚蔵館蔵
白氏文集の詩を道風が興に乗じて書いた巻子本で、巻首が「玉泉南澗花奇怪」の句で始まるのでこの名がある。楷行草を取り混ぜ、文字も大小肥痩で変化に富む。
絹地切 - 東京国立博物館ほか分蔵
伝承筆者
継色紙(つぎしきし) - 東京国立博物館蔵
寸松庵色紙(伝紀貫之筆)、升色紙(伝藤原行成筆)とともに三色紙といわれ、仮名古筆中でも最高のものといわれる。色紙型の料紙二葉を継ぎ合わせたものに、古歌一首を散らし書きしたのでこの名がある。紫、藍、赭(赤色)、緑などに染めた鳥の子紙に、白もまじえた粘葉本の断簡(だんかん、切れ切れになった文書)である。
秋萩帖 - (国宝)東京国立博物館蔵
「安幾破起乃(あきはぎの)…」の書き出しによりこの名がある。草仮名随一の名品であり、平仮名へ変遷する過渡期のものとして大変貴重である。10世紀末頃の作とされている。
本阿弥切
愛知切
綾地切
小嶋切
大内切
八幡切
その他
集古浪華帖 (道風の消息を集めて、木版で模刻刊行したもの)
逸話小野道風と蛙