小野浜町(おのはまちょう)は、兵庫県神戸市中央区の町名。丁番を持たない単独町名である。郵便番号は651-0082。 神戸港新港地区の東側(旧・葺合区側)にあたる。以前は新港第5?第8突堤だったが、現在各突堤間は埋め立てられ新港東埠頭となっている。 東は摩耶大橋および第二摩耶大橋を介して灘区摩耶埠頭、南は神戸港港島トンネルを介して中央区港島(ポートアイランド)、南西は同区新港町、西北は同区浜辺通、北東は生田川(新生田川)を挟んで同区脇浜海岸通と接する。 小野は旧生田川(1871年新生田川に付け替え。現・フラワーロード)河口に形成された平野部の名称で、平安時代より「生田の小野」と呼ばれた歌枕の地でもあり、北野・夢野
地理
歴史
小野浜と称された浜辺は河口西岸の神戸村側にも回り込んでおり、神戸村側では幕末から明治初頭にかけて神戸海軍操練所、兵庫運上所(最期まで神戸を兵庫だと言い張った江戸幕府による名称。新政府による名称は神戸運上所。現・神戸税関)などが置かれた。一方、河口東岸の小野新田村は1876年に葺合村の一部、1889年に神戸市の一部となり[1]、1900年の港域拡張でようやく神戸港に含まれるようになった[2]。
寛文4年(1664年)、新田開発が行われ、尼崎藩の検地を受け、小野新田として生田村より独立。
文久3年(1863年)、将軍徳川家茂が摂海巡視に訪れた際にこの地に上陸し、勝海舟の建議で翌元治元年、(旧)生田川東岸に外国人墓地(小野浜墓地)が設けられる。また西岸に幕府海軍操練局が設置されたが翌年廃止。
明治8年(1875年)、加納宗七が旧生田川河口東岸に港湾を開設し、加納湾などと呼ばれた。
明治11年(1878年)、英国人カービーが小野浜造船所を開設。明治17年海軍省が買収。明治28年(1895年)閉鎖される。
明治31年(1898年)、葺合区が旧小野浜造船所の入江の一部を埋立てる。
明治40年(1907年)、小野浜荷扱所(のち神戸港駅)開業。
大正5年(1916年)、鉄道院による埋立て工事。
大正6年(1917年)、東神倉庫による埋立て工事。
大正7年(1918年)、葺合浜辺通一?八丁目地先の、明治から相次いで作られた埋立地に「小野浜町」と命名、埋め立ては後も続いた。
大正8年(1920年)、神戸港第2期修築工事が開始。
昭和6年(1931年)、神戸市の区制施行により葺合区に所属。新港第5突堤竣工。
昭和11年(1936年)、新港第6突堤竣工。
昭和28年(1953年) - 新港第7突堤(西)竣工
昭和31年(1956年) - 新港第7突堤(東)竣工
昭和34年(1959年) - 新港第8突堤(西)竣工。第5?8突堤(西)に至る埋立地を編入。
昭和42年(1967年) - 新港第8突堤(東)竣工。埋立地を編入。
昭和49年(1974年)、磯上通一?八丁目・浜辺通一?八丁目の各一部を編入。
昭和54年(1979年)、ハーバーハイウェイ開通。
昭和55年(1980年)、葺合区・生田区の合区により中央区に所属。
平成9年(1997年)、新港第5?第8突堤間の名称を「新港東埠頭」と改称。新港第5?第6突堤間の埋立完了。
平成10年(1998年)、新港第6?第8突堤間の埋立完了。
平成11年(1999年)、神戸港港島トンネル開通(新港側陸上トンネル部は旧新港第6突堤の位置[3])。
平成15年(2003年)、神戸港駅廃止。
平成22年(2010年)、神戸港駅跡地に神戸震災復興記念公園(みなとのもり公園)開園。
人口統計
平成17年国勢調査(2005年10月1日現在)での世帯数6、人口12、うち男性人4、女性人8[4]。
昭和63年(1988年)の世帯数15・人口36[1]。
施設