「俳優芸術について」「いはゆるスラムプについて」では、作家の立場からの芸術・表現論を展開し、「『モオヌの大将』について」「『酸素』について」「『アドルフ』について」では、読者の立場からの感想や作品論が述べられている。「『フェードル』について」では、戯曲『芙蓉露大内実記』(1955年)、「自然について」では、『潮騒』(1954年)の風景描写などの自作解題的な随想や、古代の唯心論的自然観を論じ、「永福門院について」「神秘な詩句について」では、日本独自の古典文学論を展開している。
これらの考察の中で取り上げられている小説や書物は、
スタンダール『ヴァニナ・ヴァニニ』、バルザック『モデスト・ミニヨン』、アラン=フルニエ『モオヌの大将(英語: Le Grand Meaulnes)』、石原慎太郎『太陽の季節』、マルセル・プルースト『失われた時を求めて』、大岡昇平『酸素』、トーマス・マン『魔の山』、コンスタン『アドルフ(英語: Adolphe)』『セシル』、フリードリヒ・ヘルダーリン『ヒュペーリオン』、山本常朝『葉隠』
演劇では、
『寺子屋』、ラシーヌ『フェードル』、エウリピデス『ヒッポリュトス』
人物では、
太宰治、サルトル、那須与一、永福門院などである。その他、ニーチェの詩「新しきコロンブス」を翻訳している。
最後のテーマ「文化的混乱について」では、日本文化の特質を〈稀有な、私心なき感受性〉にあるとし、戦後の〈極限的な坩堝〉状態に或る種の可能性を抱き、世界的なモデルケースを秘めた日本の文化への期待や明るい展望で締めくくられている[15]。一見混乱としか見えぬ無道徳な享受を、未曾有の実験と私が呼ぶのは、まさにこんな極限的な坩堝の中から、日本文化の未来性が生れ出てくる、と思はれるからだ。なぜならかうした矛盾と混乱に平然と耐へる能力が、無感覚とではなく、その反対の、無私にして鋭敏な感受性と結びついてゐる以上、この能力は何ものかである。世界がせばめられ、しかも思想が対立してゐる現代で、世界精神の一つの試験的なモデルが日本文化の裡に作られつつある、と云つても誇張ではない。指導的な精神を性急に求めなければこの多様さそのものが、一つの広汎な精神に造型されるかもしれないのだ。 ? 三島由紀夫「小説家の休暇」[15]
しかし、この時に抱いていた日本文化への楽観的期待や展望は、その後の日本社会の変化と共に危機の自覚を伴いながら、後年の『日本文学小史』(1969年-1970年)では、〈厳密に言つて、一個の文化意志は一個の文学史を持つのである〉と、積極的な文化創造の意志の定立を求めるようになり[5][16]、〈男性的営為は画餅に帰し〉、〈舶来の教養も青年の膂力も滅び〉ゆく[17] 時代の到来を予見しながら危機を警告するようになる[5]。 『小説家の休暇』は、三島の数多い評論の中でも定評のある作品だが、同時代評でも総じて評価は高く、中村真一郎は、文芸雑誌『群像』の書評欄で大きな讃辞を送っている[18]。 小林信彦は、三島の評論を読んでいた当時を振り返りつつ、「三島由紀夫を小説の天才とすれば、批評・評論は超天才ですね。 『現代小説は古典たり得るか』でも『小説家の休暇』でもいいのですが、眠気が去り、頭がすっきりするほど面白い」と評している[19]。 自身の文壇デビュー作『太陽の季節』が『小説家の休暇』の中で取り上げられた石原慎太郎も、「あの人が『小説家の休暇』というソフィスティケイテッドなエッセイ集を出したときに、中にチラチラッと一、二行出てくるんですよ。それを見てぼくは文學界新人賞をもらったときよりもジーンときた。ついにこの人の目にとまったという感じがあってね」と述懐し、三島の評論を愛読していたことを語っている[20]。 上田真は、三島がタイトルに〈休暇〉と銘打ち、平易な文体で日々の断想を気楽に綴っているが、内容的には三島が「生涯をかけて追いつづけた重要な諸問題」が列挙され、その意味では「充実した〈休暇〉」だと評しながら[2]、その底流には、後年の『太陽と鉄』などに結晶してゆく三島独自の芸術観や人生観が一貫して流れていると解説している[2]。 鹿島茂は、『小説家の休暇』の中で語られているバルザックやプルーストなどの近代フランス作家の小説方法論についての考察とその作品の読み返しは、この時期に連載していた『幸福号出帆』の作品構成で模索され、その後の『鏡子の家』の方法論へと結びついていくと解説している[21]。 青海健は、三島にとって宿命的であり続けた問題が「人生対作品」であったとし(「人生と作品」という並列でなく)[22]、三島が『小説家の休暇』の中で、〈純然たる芸術的問題も、純然たる人生的問題も、共に小説固有の問題ではないと、このごろの私には思はれる。小説固有の問題とは、芸術対人生、芸術家対生、の問題である〉と述べていることに着目している[22]。 そして三島がさらにその問題を、同時期に発表した評論『芸術にエロスは必要か』の中で、トーマス・マンの『トニオ・クレエゲル』の「トニオ(芸術家)」対「ハンスやインゲ(美しい無智者。欠乏の自覚〈エロス
評価・研究
田中美代子は、「小説のためのエスキースであり、基礎工事でもあるような評論」に、三島が〈小説家の休暇〉と名付けているのは三島一流の「ダンディズムの発露」であり、この評論の中には「三島文学の全体を形成する基本的な諸要素のすべてが出そろっている」と解説している[5]。彼の生涯を見渡して、これが昭和三十年、創作力のもっとも充実した黄金期ともいうべき三十歳当時に書かれているのは、注目に価いする。最期に向かっての彼の成熟は、いわばここに播かれたあまたの観念の種子がやがて殻を破り、次第に生育し、肥り、繁茂してゆく過程にことならなかったのだ。
「大体において、私は少年時代に夢みたことをみんなやつてしまつた。少年時代の空想を、何ものかの恵みと劫罰とによつて、全部成就してしまつた。唯一つ、英雄たらんと夢みたことを除いて」