小西行長
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同年の紀州征伐では、水軍を率いて参戦したが、雑賀衆の抵抗を受けて敗退したといわれている。また一方で、太田城の水攻めでは、安宅船や大砲も動員して攻撃し、開城のきっかけを作ったともいわれている。

天正13年(1585年)、小豆島で1万石を与えられた[注釈 3]

これに前後して、天正12年(1584年)には高山右近の後押しもあって洗礼を受けキリシタンとなる[6]。小豆島ではグレゴリオ・デ・セスペデスを招いてキリスト教の布教を行い、島の田畑の開発を積極的に行った。また、天正15年(1587年)のバテレン追放令の際に改易となった右近を島に匿い、秀吉に諫言している[6]

天正14年(1586年)10月頃より摂津守を名乗り、没するまで摂津守を名乗ることになるが、天正15年(1587年)3月から5月の時期のみ日向守を名乗っている[7]
宇土城主時代

天正15年(1587年)の九州平定、天正16年(1588年)の肥後国人一揆の討伐に功をあげ、肥後国の南半国宇土益城八代の三郡20万石あまりを与えられた。

天正17年(1589年)、宇土古城の東の地(現在の熊本県宇土市古城町)に新たな宇土城を築城し、本拠とした。小丘陵の城山の頂上に本丸、西に二の丸・堀と石垣三の丸を配し、それぞれを堀と石垣で囲んだ近世城郭であった。鎌倉時代末期に宇土氏によって築かれた宇土古城とともにみると、鶴が翼を広げているように見えたことから「鶴の城」の異名を持つ。

この宇土城普請に従わなかった天草五人衆とは戦になり(天草国人一揆)、これを加藤清正らとともに平定。天草1万石あまりも所領とした。秀吉は、後の朝鮮出兵を視野に入れて、水軍を統率する行長を肥後に封じたという[8]

このころ天草は人口3万の2/3にあたる2万3千がキリシタンであり、60人あまりの神父、30の教会が存在したという。志岐氏の所領である志岐には宣教師の要請によって画家でもあるイタリア人修道士(イルマン)ジョバンニ・ニコラオが派遣され、ニコラオの指導下で聖像学校が営まれ、油絵、水彩画、銅版画が教えられ聖画・聖像の製作、パイプオルガンや時計などの製作が行われていた。学校は後の文禄3年(1594年)、有馬半島八良尾のセミナリオと合併し[注釈 4]、規模を拡大したが、これらイエズス会の活動に行長は援助を与え保護した。

行長の宇土城は水城として優れた機能を持っていたというが、秀吉の意を受け、相良氏統治時代からこの地域の海外貿易の中心地であった八代(徳淵津)[注釈 5]にも、麦島城を築城して水利を強化し、重臣の小西行重を城代として配置した。行長は従来の山頂にあった古麓城を廃して、麦島城を球磨川と八代海に面する河口の島に建て、堀から外水を引きれて浮城としたので、直接、船で出入りできた。このほか隈庄城、木山城、矢部城、愛藤寺城を支城とし、隈庄城に弟の小西主殿介、愛籐寺城に結城弥平次ら一族重臣を城代に任じている。また高山右近の旧臣(キリシタン)が多く家臣に取り立てられた。

しかし、残りの肥後北半国を領した清正とは次第に確執を深めることになった(後述)。
文禄・慶長の役文禄の役における小西行長の進路(黄線)

文禄元年(1592年)からの文禄の役に際しては、行長と加藤清正の両名が年来先鋒となることを希望していたが、秀吉は行長を先鋒として、清正は2番手とした。出陣に際して秀吉より大黒の馬を贈られている。戦端が開かれると釜山の攻略を皮切りに、次々と朝鮮軍を破り(釜山鎮の戦い東?城の戦い尚州の戦い忠州の戦い)、清正に先んじて漢城を占領し、さらに北進を続け平壌の攻略を果たす(大同江の戦い)。この間、行長は度々朝鮮側に対して交渉による解決を呼び掛けているが、何れも朝鮮側が拒絶または黙殺している。その後、平壌奪還を図った祖承訓率いる軍の攻撃を撃退した。この平壌の戦いでは弟・小西与七郎と従兄弟・小西アントニオ、一門の日比谷アゴストのほかに著名な者の戦死者はなかった。その後、この明軍に対して講和を呼び掛け、50日間の休戦と講和交渉の同意を取り付けた。次に朝鮮軍が平壌を攻撃したがこれも撃退する。

行長は休戦期日を過ぎても講和交渉の明側の返答を待ち続けていたが、この間、明では李如松率いる4万余の朝鮮派遣軍を編成し、平壌に向かって進行していた。文禄2年(1593年)1月に明軍による平壌攻撃が行われると、抗しきれず漢城まで退却する。


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