19世紀初頭林子平の『三国通覧図説』から小笠原諸島がボニン・アイランズ(Bonin Islands)としてヨーロッパへ紹介されると、各国の船舶が小笠原諸島へと寄港するようになった。
1827年イギリス海軍のブロッサム号を率いるフレデリック・ウィリアム・ビーチーが現在の父島二見港から上陸すると、前年行方不明となったイギリスの捕鯨船ウィリアム号の乗組員 2人と遭遇し、他国の船も来航していることを知ったビーチーは、領有宣言板を島内の木に打ち付け島を離れた。ビーチーより小笠原諸島の存在の報告を受けた在ホノルルイギリス領事は、ボニン・アイランズへの入植計画を進め、1830年欧米人5人と太平洋諸島出身者25人による入植団をつくり、現在の父島へ入植を果たした。この後も各国の船舶は、水や食料を確保したり病人を下船させるなど、様々な目的で頻繁に小笠原諸島に寄港した。
小笠原に漂着し外国船に助けられた日本人から伝わる情報や、ペリーの「小笠原諸島に関する覚書」におけるこの地への評価から、小笠原諸島は幕府首脳の関心を引いた。1861年江戸幕府は列国公使に小笠原の開拓を通告した。1862年1月(文久元年12月)外国奉行水野忠徳の一行が咸臨丸で小笠原に赴き、外国人島民に日本が管理することを告げた。その後八丈島から日本人の入植者が送りこまれ開拓が始まった[56]。最新の研究が示したように、文久年間の小笠原開拓は徳川幕府にとって外交上の挑戦のみならず、知的かつ環境的変遷も引き起こした。小笠原諸島の測量に関わった小野友五郎は製図学の最新方法を活かし、小花作之助などといった探検家は異国的環境についての情報を収集した。阿部櫟斎を筆頭に、数人の本草学者が小笠原在住の異国人と交流し、その文化について学んだ。1863年8月(文久3年5月)に西洋列強の圧力で幕府は退島を命じた。維新後の1875年12月は、明治政府は小笠原諸島を改めて開拓した。[57]
連合軍占領下の小笠原詳細は「アメリカ施政権下の小笠原諸島」を参照
第二次世界大戦終戦以降は、連合国軍の占領下におかれ、連合国軍の1国であったアメリカ軍の占領担当地域になった。アメリカ軍政時代にはアメリカ海軍の基地が設置され、物資の輸送は 1か月に 1回グアム島からの軍用船によって行われた。欧米系住民は戦前の土地区画に関係なく決められた区画に集められ、その多くはアメリカ軍施設で働いた。
島民の自治組織として五人委員会が設けられた。島の子供たちは、アメリカ軍の子弟のために1956年に設立されたラドフォード提督初等学校で、アメリカ軍の子弟と一緒に学び、高等教育はグアム島で行われた。アメリカ軍によって戦前の土地区画に関係なく決められた区画に集められたことは、日本返還後も効率的な開発の都合から踏襲され、戦前の土地所有者との補償交渉で揉める[52]こととなった。
また、後に日本国政府の意向を無視して、父島に核兵器の貯蔵施設が作られていたことが、アメリカの情報公開によって知れ渡った[52]。軍政時代に数基の核弾頭が保管されていた[52]という。1950年代にも国務省が小笠原の日本返還を検討したが、アメリカ海軍を始めとする国防総省が反対したため、頓挫[52]した。その理由は核兵器の保管[52]だったという。返還後、欧米系住民の子弟は、日本語教育の困難な問題により、アメリカ合衆国に移住した者もいた。
文化島寿司亀の煮物ウミガメの刺身