19世紀に入ると欧米の捕鯨船が寄港するようになる[34]。1823年9月、イギリス捕鯨船「トランジット」が母島に寄港し、船長ジェームス・コフィンは船主のフィッシャー商会にちなんで島をフィッシャー島と命名した[34]。「ランジット」は、記録に残る中では小笠原諸島に寄港した最初の捕鯨船である[34]。1825年にはイギリスの「サプライ」が父島を訪れ、1826年にはイギリス捕鯨船「ウィリアム」が父島で難破した[34]。1827年6月8日、小笠原諸島を探索していたイギリス海軍の調査船「ブロッサム(英語版)」が到着[35]。「ウィリアム」の元乗組員で、島に残っていた2名を発見した[36]。「ブロッサム」艦長フレデリック・ウィリアム・ビーチーは父島をロバート・ピールにちなんでピール島、母島をベイリイ島などと名付け、領有を宣言した[37]。彼は、発見したのは『日本誌』などの掲載されている島とは別の島であると主張した[38]。この領有宣言はイギリス政府から正式に承認されなかったようである[39]。1828年、ロシア調査船「セニャーヴィン」(フョードル・リトケ艦長)が来訪[39]。
1830年6月26日(文政13年5月10日) - ナサニエル・セイヴァリー(Nathaniel Savory)ら白人5人と太平洋諸島出身者25人がハワイ王国オアフ島から父島の奥村に入植する[注釈 3]。
1835年(天保6年) - 駐マカオ貿易監督官であるチャールズ・エリオット(Charles Elliot)が、イギリス政府に対して父島へ軍艦を派遣し、当地を占領するよう要請する[40]。これは清朝に対するイギリスの根拠地を求めたため[40]であり、この要請を受けて、イギリス海軍は軍艦ローリー号(HMS Raleigh)の派遣を決定する[40]。
1835年(天保6年) - 父島のリチャード・ミリチャンプ(Richard Millichamp)がロンドンに一時帰国[40]し、イギリス政府に小笠原移住民の保護を請願する[41][40]。
1837年8月2日(天保8年7月2日) - ローリー号が父島に来航し、各種の調査を行う。また当時の父島の人口を42名と報告している[42]。この調査の結果はイギリス政府に報告されたが、3年後に勃発したアヘン戦争とそれに伴う南京条約の結果、イギリスは香港を獲得したため、小笠原諸島の占領は見送られた[42]。
1839年(天保10年) - 蛮社の獄により、渡辺崋山ら11名が小笠原諸島渡航を企てた罪で捕縛される。その後の取り調べで小笠原諸島渡航に関しては疑いが晴れるが、4名が獄死し、5名が押込となった。高野長英は永牢(終身刑)となり、渡辺崋山は家宅捜索の際に発表を控えていた『慎機論』が発見され、蟄居を命じられる[43]。
1840年(天保11年) - 陸前高田の「中吉丸」が父島に漂着し、生存した三之丞ら6名は2か月かけて船を修理したのち、下総国銚子に帰還する[41][44]。
1846年(弘化3年) - 出島のオランダ商館長ヨセフ・ヘンリー・レフィスゾーン(Joseph Henrij Levijssohn)が長崎奉行に対し、小笠原諸島の実効支配を行うよう忠告するが、幕府はこれを黙殺する[45]。
1847年(弘化4年) - ジョン万次郎が米捕鯨船に乗って小笠原に来航。後年、今度は日本側官吏として小笠原にやってくることになる。
1849年(嘉永2年)9月 - 父島が海賊の襲撃を受け、数人の島民女性が拉致された上、家畜、食糧、医薬品や現金2000ドルを強奪される[46]。
1853年(嘉永6年)6月 - アメリカ東インド艦隊司令官ペリーが日本へ行く途中、琉球を経て父島二見港に寄港する。島民のために牛、羊、山羊や野菜の種子を与え、石炭補給所用の敷地を購入したほか、3条13項から成るピール島植民地規約を制定し、自治政府設置を促す[47]。