小笠原諸島
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その後八丈島から日本人の入植者が送りこまれ開拓が始まった[56]。最新の研究が示したように、文久年間の小笠原開拓は徳川幕府にとって外交上の挑戦のみならず、知的かつ環境的変遷も引き起こした。小笠原諸島の測量に関わった小野友五郎は製図学の最新方法を活かし、小花作之助などといった探検家は異国的環境についての情報を収集した。阿部櫟斎を筆頭に、数人の本草学者が小笠原在住の異国人と交流し、その文化について学んだ。1863年8月(文久3年5月)に西洋列強の圧力で幕府は退島を命じた。維新後の1875年12月は、明治政府は小笠原諸島を改めて開拓した。[57]
連合軍占領下の小笠原詳細は「アメリカ施政権下の小笠原諸島」を参照

第二次世界大戦終戦以降は、連合国軍の占領下におかれ、連合国軍の1国であったアメリカ軍の占領担当地域になった。アメリカ軍政時代にはアメリカ海軍の基地が設置され、物資の輸送は 1か月に 1回グアム島からの軍用船によって行われた。欧米系住民は戦前の土地区画に関係なく決められた区画に集められ、その多くはアメリカ軍施設で働いた。

島民の自治組織として五人委員会が設けられた。島の子供たちは、アメリカ軍の子弟のために1956年に設立されたラドフォード提督初等学校で、アメリカ軍の子弟と一緒に学び、高等教育はグアム島で行われた。アメリカ軍によって戦前の土地区画に関係なく決められた区画に集められたことは、日本返還後も効率的な開発の都合から踏襲され、戦前の土地所有者との補償交渉で揉める[52]こととなった。

また、後に日本国政府の意向を無視して、父島に核兵器の貯蔵施設が作られていたことが、アメリカの情報公開によって知れ渡った[52]。軍政時代に数基の核弾頭が保管されていた[52]という。1950年代にも国務省が小笠原の日本返還を検討したが、アメリカ海軍を始めとする国防総省が反対したため、頓挫[52]した。その理由は核兵器の保管[52]だったという。返還後、欧米系住民の子弟は、日本語教育の困難な問題により、アメリカ合衆国に移住した者もいた。
文化島寿司亀の煮物ウミガメの刺身

固有の植物や海産物が多く採れ、ボニンコーヒー海亀肉、島魚を使った焼き物・煮物・島寿司味噌汁・ピーマカ(魚の漬け、ビネガーの転訛)、パッションフルーツマンゴーパパイヤグァバなどを用いたデザートリキュール、ダンプレン(ダンプリング、欧米系住民の食文化)などがある。
言語

欧米系住民が話していた英語ハワイ語の語彙と日本語八丈方言(八丈語)、日本語共通語が混合された、独特の言語(「小笠原方言」などと呼ばれるピジン言語クレオール言語[58][52])が存在する。
民謡

伊豆諸島の系統を引く大和民族的なものと、南洋諸島に移住した島民などから伝えられたミクロネシア系民族の影響を受けたものが共存する。後者の民謡は『南洋踊り』と呼ばれ、2000年に東京都指定無形民俗文化財となった。
産業

小笠原の就業者のうち公務員が3割を占め[52]、観光業や飲食業などを加えて第三次産業従事者が7割超である。以下第一次産業が1割、第二次産業が2割[52]となっている。

パッションフルーツ、レモンマンゴーコーヒー(日本では沖縄諸島と小笠原のみ)の栽培のほか、はちみつ(甘露はちみつ[59])、ラム酒の製造も行い、土産のほか本土にも出荷される。サツマイモアサガオなど一部の農産物や植物は本土には存在しない害虫の移出を防ぐため、諸島外への持ち出しに厳しい制限があり、消毒などの手続きを要する。

漁業については、近年、小笠原近海において他国によるサンゴの密漁(中国漁船サンゴ密漁問題など)が増加しており、密漁船との衝突などを恐れて漁を控える漁船が相次いでいることが問題となっている。
流通

本土からの物資輸送は定期船「おがさわら丸」入港日に商店に品物が入荷されるため、その直前は販売品が少ない。小笠原諸島では曜日に関係なく船の入港日に合わせた活動が行われている事例があり、船が島に停泊していない(船が東京に戻り、観光客も大半がいない)日は閉まっている店舗も少なくない。


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