小笠原諸島
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

最終的に貞任の主張は虚偽であるとされ、彼は重追放に処されることとなったが、この出来事の結果、問題の島々は小笠原諸島と呼ばれるようになる[28]。また、彼が提出した「辰巳無人島訴状?口上留書」には父島、母島等の名前が記されており、各島の名前も彼の命名が元になったと考えられる[29]

ヨーロッパでは、1727年出版のエンゲルベルト・ケンペルの『日本誌』で初めて長右衛門らが漂着した島について記され、その島は「ブネシマ(無人島)またはブネ(無人)の島」と呼ばれたと書かれている[30]。日本では、天明5年(1785年)の林子平の『三国通覧図説』で小笠原島という名称が登場している[31]。1817年にフランスのアベル・レミューザが三国通覧図説の地図を載せて小笠原諸島を「BO-NIN諸島」として紹介した[32]。以後、ヨーロッパの地図でボニンという名称が使用されることとなったという[32]

安永3年(1774年)3月、八丈島の地役人服部源六、山下輿総らが幕府の命令を受けて無人島探検を行うが、鳥島近海で暴風に遭い、土佐国に漂着したため失敗に終わったという[33]

1779年(安永8年)、ジョン・ゴア(英語版)(John Gore)が指揮するイギリス軍艦「レゾリューション」と「ディスカバリー(英語版)」が火山列島を望見する[16]ハワイに碇泊中の「ブロッサム」

19世紀に入ると欧米捕鯨船が寄港するようになる[34]。1823年9月、イギリス捕鯨船「トランジット」が母島に寄港し、船長ジェームス・コフィンは船主のフィッシャー商会にちなんで島をフィッシャー島と命名した[34]。「ランジット」は、記録に残る中では小笠原諸島に寄港した最初の捕鯨船である[34]。1825年にはイギリスの「サプライ」が父島を訪れ、1826年にはイギリス捕鯨船「ウィリアム」が父島で難破した[34]。1827年6月8日、小笠原諸島を探索していたイギリス海軍の調査船「ブロッサム(英語版)」が到着[35]。「ウィリアム」の元乗組員で、島に残っていた2名を発見した[36]。「ブロッサム」艦長フレデリック・ウィリアム・ビーチーは父島をロバート・ピールにちなんでピール島、母島をベイリイ島などと名付け、領有を宣言した[37]。彼は、発見したのは『日本誌』などの掲載されている島とは別の島であると主張した[38]。この領有宣言はイギリス政府から正式に承認されなかったようである[39]。1828年、ロシア調査船「セニャーヴィン」(フョードル・リトケ艦長)が来訪[39]

1830年6月26日(文政13年5月10日) - ナサニエル・セイヴァリー(Nathaniel Savory)ら白人5人と太平洋諸島出身者25人がハワイ王国オアフ島から父島の奥村に入植する[注釈 3]

1835年(天保6年) - 駐マカオ貿易監督官であるチャールズ・エリオット(Charles Elliot)が、イギリス政府に対して父島へ軍艦を派遣し、当地を占領するよう要請する[40]。これは清朝に対するイギリスの根拠地を求めたため[40]であり、この要請を受けて、イギリス海軍は軍艦ローリー号(HMS Raleigh)の派遣を決定する[40]

1835年(天保6年) - 父島のリチャード・ミリチャンプ(Richard Millichamp)がロンドンに一時帰国[40]し、イギリス政府に小笠原移住民の保護を請願する[41][40]

1837年8月2日(天保8年7月2日) - ローリー号が父島に来航し、各種の調査を行う。また当時の父島の人口を42名と報告している[42]。この調査の結果はイギリス政府に報告されたが、3年後に勃発したアヘン戦争とそれに伴う南京条約の結果、イギリスは香港を獲得したため、小笠原諸島の占領は見送られた[42]

1839年(天保10年) - 蛮社の獄により、渡辺崋山ら11名が小笠原諸島渡航を企てた罪で捕縛される。その後の取り調べで小笠原諸島渡航に関しては疑いが晴れるが、4名が獄死し、5名が押込となった。高野長英は永牢(終身刑)となり、渡辺崋山は家宅捜索の際に発表を控えていた『慎機論』が発見され、蟄居を命じられる[43]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:172 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef