小笠原諸島
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ただし、小笠原諸島周辺海域は2017年現在でも地方海上予報区[13]の区域外であり、海上警報も発表されない。
歴史

古第三紀 - 凝灰質砂岩・泥岩・石灰岩などの海底噴出物より形成される[14]

北硫黄島には先史時代1世紀頃)のものとみられる石野遺跡がある[15]。父島の大根山遺跡でも打製石斧が発見されているが詳細な時代は不明である。

1543年10月(天文12年9月) - スペインルイ・ロペス・デ・ビリャロボス(Ruy Lopez de Villalobos)が指揮するガレオン船サン・ファン号(San Juan)によって、火山列島が発見される[16]。この時発見されたのは小笠原群島であるとの説もある[17]。1639年(寛永16年)、ヘンドリックセン・マティス・クワスト(英語版)とアベル・ヤンスゾーン・タスマンオランダ東インド会社総督の命を受け、「エンゲル」と「フラフト」の2隻が探検に向かった[17]。2隻は7月21日に多数の島を発見[17]。この時エンゲル島、フラフト島と命名されたとされる島は母島と父島であると思われる[18]

寛永9年12月(1633年1月)、船主で船頭の勘左衛門、荷主の長右衛門ら7人が乗り蜜柑を積んで江戸へ向かっていた船が遠州灘で遭難[19]。同船は寛永10年2月20日(1633年3月29日)ごろある島にたどり着いた[20]。その島は母島であると思われる[21]。翌朝勘左衛門は死亡していたというが、残りの者は船を作り、八丈島経由で5月7日に下田に帰還した[22]。生還者の報告を受け、幕府は延宝3年(1675年)4月に探検船「富国寿丸」を派遣した[23]。船は4月29日に父島を発見[24]。以後主な島の探検が行われ、また父島に祠が作られて、その脇には「此島大日本之内也」等と記されたという[25]。その後6月6日に小笠原を離れ、6月12日に下田に帰投した[25]

1702年元禄15年) - スペインの帆船ヌエストラ・セニョーラ・デル・ロザリオ号 (Nuestra-Senora del Rosario) が西之島を発見し、ロザリオ島 (Isla de Rosario)と命名する[要出典]。

享保7年(1722年)春、伊豆・相模両国の代官山田治衛門が無人島探検を幕府へ具申[26]。その準備が行われていたところ、小笠原貞任なる人物が、先祖の小笠原貞頼文禄2年(1593年)に伊豆の南で無人島を発見し、所領として安堵されたという写本を提出して渡航許可を求めた[27]。最終的に貞任の主張は虚偽であるとされ、彼は重追放に処されることとなったが、この出来事の結果、問題の島々は小笠原諸島と呼ばれるようになる[28]。また、彼が提出した「辰巳無人島訴状?口上留書」には父島、母島等の名前が記されており、各島の名前も彼の命名が元になったと考えられる[29]

ヨーロッパでは、1727年出版のエンゲルベルト・ケンペルの『日本誌』で初めて長右衛門らが漂着した島について記され、その島は「ブネシマ(無人島)またはブネ(無人)の島」と呼ばれたと書かれている[30]。日本では、天明5年(1785年)の林子平の『三国通覧図説』で小笠原島という名称が登場している[31]。1817年にフランスのアベル・レミューザが三国通覧図説の地図を載せて小笠原諸島を「BO-NIN諸島」として紹介した[32]。以後、ヨーロッパの地図でボニンという名称が使用されることとなったという[32]

安永3年(1774年)3月、八丈島の地役人服部源六、山下輿総らが幕府の命令を受けて無人島探検を行うが、鳥島近海で暴風に遭い、土佐国に漂着したため失敗に終わったという[33]

1779年(安永8年)、ジョン・ゴア(英語版)(John Gore)が指揮するイギリス軍艦「レゾリューション」と「ディスカバリー(英語版)」が火山列島を望見する[16]ハワイに碇泊中の「ブロッサム」

19世紀に入ると欧米捕鯨船が寄港するようになる[34]。1823年9月、イギリス捕鯨船「トランジット」が母島に寄港し、船長ジェームス・コフィンは船主のフィッシャー商会にちなんで島をフィッシャー島と命名した[34]。「ランジット」は、記録に残る中では小笠原諸島に寄港した最初の捕鯨船である[34]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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