123456789101112
65 2116 58 2015 77 2217 118 2319 145 2521 135 2824 81 3025 113 3026 131 3026 132 2824 128 2621 109 2218
気温(°C)
総降水量(mm)
出典:気象庁
インペリアル換算
123456789101112
2.6 6960 2.3 6860 3 7162 4.7 7466 5.7 7870 5.3 8275 3.2 8678 4.4 8679 5.2 8578 5.2 8375 5 7870 4.3 7264
気温(°F)
総降水量(in)
123456789101112
72 2520 43 2419 43 2520 72 2722 90 2924 61 3126 153 3126 167 3126 100 3126 80 3026 70 2925 97 2722
気温(°C)
総降水量(mm)
出典:気象庁
インペリアル換算
123456789101112
2.8 7669 1.7 7667 1.7 7868 2.9 8172 3.6 8475 2.4 8878 6 8879 6.6 8879 3.9 8879 3.2 8778 2.8 8476 3.8 8072
気温(°F)
総降水量(in)
日本の気候区分では「南日本気候」、ケッペンの気候区分では、聟島(むこじま)列島・父島列島・母島列島・西之島が温帯に、火山列島・南鳥島・沖ノ鳥島が熱帯に属するが、温帯に属する地域は一般的に亜熱帯とされる。それに併せて海洋性気候にも属する。
年間を通じて暖かく、夏と冬の気温差は小さい。春から初冬にかけて台風が接近する。梅雨前線はこの地の北に現れ、太平洋高気圧の支配下となるため、北海道と同様に梅雨が無いとされる[10]。
気象庁による有人観測施設は、父島気象観測所・南鳥島気象観測所( 2か所とも高層気象観測も実施)、アメダスが母島(雨量のみ観測)に設置されている。なお、小笠原諸島には気象レーダーが設置されておらず、気象レーダーによる観測が行われていない[11]。また、2008年3月26日まで、日本全国で唯一気象に関する注意報・警報および、週間天気予報は発表されていなかった[12]。ただし、小笠原諸島周辺海域は2017年現在でも地方海上予報区[13]の区域外であり、海上警報も発表されない。 古第三紀 - 凝灰質砂岩・泥岩・石灰岩などの海底噴出物より形成される[14]。 北硫黄島には先史時代(1世紀頃)のものとみられる石野遺跡がある[15]。父島の大根山遺跡でも打製石斧が発見されているが詳細な時代は不明である。 1543年10月(天文12年9月) - スペインのルイ・ロペス・デ・ビリャロボス(Ruy Lopez de Villalobos)が指揮するガレオン船サン・ファン号(San Juan)によって、火山列島が発見される[16]。この時発見されたのは小笠原群島であるとの説もある[17]。1639年(寛永16年)、ヘンドリックセン・マティス・クワスト
歴史
寛永9年12月(1633年1月)、船主で船頭の勘左衛門、荷主の長右衛門ら7人が乗り蜜柑を積んで江戸へ向かっていた船が遠州灘で遭難[19]。同船は寛永10年2月20日(1633年3月29日)ごろある島にたどり着いた[20]。その島は母島であると思われる[21]。翌朝勘左衛門は死亡していたというが、残りの者は船を作り、八丈島経由で5月7日に下田に帰還した[22]。生還者の報告を受け、幕府は延宝3年(1675年)4月に探検船「富国寿丸」を派遣した[23]。船は4月29日に父島を発見[24]。以後主な島の探検が行われ、また父島に祠が作られて、その脇には「此島大日本之内也」等と記されたという[25]。その後6月6日に小笠原を離れ、6月12日に下田に帰投した[25]。
1702年(元禄15年) - スペインの帆船ヌエストラ・セニョーラ・デル・ロザリオ号 (Nuestra-Senora del Rosario) が西之島を発見し、ロザリオ島 (Isla de Rosario)と命名する[要出典]。
享保7年(1722年)春、伊豆・相模両国の代官山田治衛門が無人島探検を幕府へ具申[26]。その準備が行われていたところ、小笠原貞任なる人物が、先祖の小笠原貞頼が文禄2年(1593年)に伊豆の南で無人島を発見し、所領として安堵されたという写本を提出して渡航許可を求めた[27]。最終的に貞任の主張は虚偽であるとされ、彼は重追放に処されることとなったが、この出来事の結果、問題の島々は小笠原諸島と呼ばれるようになる[28]。また、彼が提出した「辰巳無人島訴状?口上留書」には父島、母島等の名前が記されており、各島の名前も彼の命名が元になったと考えられる[29]。
ヨーロッパでは、1727年出版のエンゲルベルト・ケンペルの『日本誌』で初めて長右衛門らが漂着した島について記され、その島は「ブネシマ(無人島)またはブネ(無人)の島」と呼ばれたと書かれている[30]。日本では、天明5年(1785年)の林子平の『三国通覧図説』で小笠原島という名称が登場している[31]。