小笠原諸島
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また陸上では特に固有のカタツムリ動物相維管束植物植物相が豊富である一方、人間が持ち込み野生化したヤギも生息しており、森林の破壊や表土の流失、固有植物の食害などの問題をもたらしている[7][8]
指定

1972年昭和47年)10月16日:一部の島や地域を除き小笠原国立公園として、国立公園に指定された。

1980年(昭和55年)3月31日:国指定小笠原諸島鳥獣保護区(希少鳥獣生息地)に指定された(面積5,899ha、うち特別保護地区1,331ha)。

2011年平成23年)6月24日国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)の第35回世界遺産委員会にて、世界自然遺産に登録が決定(正式登録は6月29日[9]

気候 雨温図

父島
雨温図説明

123456789101112
  65 2116  58 2015  77 2217  118 2319  145 2521  135 2824  81 3025  113 3026  131 3026  132 2824  128 2621  109 2218
気温(°C)
総降水量(mm)
出典:気象庁

インペリアル換算
123456789101112
  2.6 6960  2.3 6860  3 7162  4.7 7466  5.7 7870  5.3 8275  3.2 8678  4.4 8679  5.2 8578  5.2 8375  5 7870  4.3 7264
気温(°F)
総降水量(in)

南鳥島
雨温図説明

123456789101112
  72 2520  43 2419  43 2520  72 2722  90 2924  61 3126  153 3126  167 3126  100 3126  80 3026  70 2925  97 2722
気温(°C)
総降水量(mm)
出典:気象庁

インペリアル換算
123456789101112
  2.8 7669  1.7 7667  1.7 7868  2.9 8172  3.6 8475  2.4 8878  6 8879  6.6 8879  3.9 8879  3.2 8778  2.8 8476  3.8 8072
気温(°F)
総降水量(in)

日本の気候区分では「南日本気候」、ケッペンの気候区分では、聟島(むこじま)列島父島列島母島列島西之島温帯に、火山列島南鳥島沖ノ鳥島熱帯に属するが、温帯に属する地域は一般的に亜熱帯とされる。それに併せて海洋性気候にも属する。

年間を通じて暖かく、夏と冬の気温差は小さい。から初冬にかけて台風が接近する。梅雨前線はこの地の北に現れ、太平洋高気圧の支配下となるため、北海道と同様に梅雨が無いとされる[10]

気象庁による有人観測施設は、父島気象観測所・南鳥島気象観測所( 2か所とも高層気象観測も実施)、アメダスが母島(雨量のみ観測)に設置されている。なお、小笠原諸島には気象レーダーが設置されておらず、気象レーダーによる観測が行われていない[11]。また、2008年3月26日まで、日本全国で唯一気象に関する注意報警報および、週間天気予報は発表されていなかった[12]。ただし、小笠原諸島周辺海域は2017年現在でも地方海上予報区[13]の区域外であり、海上警報も発表されない。
歴史

古第三紀 - 凝灰質砂岩・泥岩・石灰岩などの海底噴出物より形成される[14]

北硫黄島には先史時代1世紀頃)のものとみられる石野遺跡がある[15]。父島の大根山遺跡でも打製石斧が発見されているが詳細な時代は不明である。

1543年10月(天文12年9月) - スペインルイ・ロペス・デ・ビリャロボス(Ruy Lopez de Villalobos)が指揮するガレオン船サン・ファン号(San Juan)によって、火山列島が発見される[16]。この時発見されたのは小笠原群島であるとの説もある[17]。1639年(寛永16年)、ヘンドリックセン・マティス・クワスト(英語版)とアベル・ヤンスゾーン・タスマンオランダ東インド会社総督の命を受け、「エンゲル」と「フラフト」の2隻が探検に向かった[17]。2隻は7月21日に多数の島を発見[17]。この時エンゲル島、フラフト島と命名されたとされる島は母島と父島であると思われる[18]

寛永9年12月(1633年1月)、船主で船頭の勘左衛門、荷主の長右衛門ら7人が乗り蜜柑を積んで江戸へ向かっていた船が遠州灘で遭難[19]。同船は寛永10年2月20日(1633年3月29日)ごろある島にたどり着いた[20]。その島は母島であると思われる[21]。翌朝勘左衛門は死亡していたというが、残りの者は船を作り、八丈島経由で5月7日に下田に帰還した[22]。生還者の報告を受け、幕府は延宝3年(1675年)4月に探検船「富国寿丸」を派遣した[23]。船は4月29日に父島を発見[24]。以後主な島の探検が行われ、また父島に祠が作られて、その脇には「此島大日本之内也」等と記されたという[25]。その後6月6日に小笠原を離れ、6月12日に下田に帰投した[25]

1702年元禄15年) - スペインの帆船ヌエストラ・セニョーラ・デル・ロザリオ号 (Nuestra-Senora del Rosario) が西之島を発見し、ロザリオ島 (Isla de Rosario)と命名する[要出典]。

享保7年(1722年)春、伊豆・相模両国の代官山田治衛門が無人島探検を幕府へ具申[26]。その準備が行われていたところ、小笠原貞任なる人物が、先祖の小笠原貞頼文禄2年(1593年)に伊豆の南で無人島を発見し、所領として安堵されたという写本を提出して渡航許可を求めた[27]。最終的に貞任の主張は虚偽であるとされ、彼は重追放に処されることとなったが、この出来事の結果、問題の島々は小笠原諸島と呼ばれるようになる[28]。また、彼が提出した「辰巳無人島訴状?口上留書」には父島、母島等の名前が記されており、各島の名前も彼の命名が元になったと考えられる[29]

ヨーロッパでは、1727年出版のエンゲルベルト・ケンペルの『日本誌』で初めて長右衛門らが漂着した島について記され、その島は「ブネシマ(無人島)またはブネ(無人)の島」と呼ばれたと書かれている[30]。日本では、天明5年(1785年)の林子平の『三国通覧図説』で小笠原島という名称が登場している[31]


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