小笠原諸島
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1639年(寛永16年)、ヘンドリックセン・マティス・クワスト(英語版)とアベル・ヤンスゾーン・タスマンオランダ東インド会社総督の命を受け、「エンゲル」と「フラフト」の2隻が探検に向かった[17]。2隻は7月21日に多数の島を発見[17]。この時エンゲル島、フラフト島と命名されたとされる島は母島と父島であると思われる[18]

寛永9年12月(1633年1月)、船主で船頭の勘左衛門、荷主の長右衛門ら7人が乗り蜜柑を積んで江戸へ向かっていた船が遠州灘で遭難[19]。同船は寛永10年2月20日(1633年3月29日)ごろある島にたどり着いた[20]。その島は母島であると思われる[21]。翌朝勘左衛門は死亡していたというが、残りの者は船を作り、八丈島経由で5月7日に下田に帰還した[22]。生還者の報告を受け、幕府は延宝3年(1675年)4月に探検船「富国寿丸」を派遣した[23]。船は4月29日に父島を発見[24]。以後主な島の探検が行われ、また父島に祠が作られて、その脇には「此島大日本之内也」等と記されたという[25]。その後6月6日に小笠原を離れ、6月12日に下田に帰投した[25]

1702年元禄15年) - スペインの帆船ヌエストラ・セニョーラ・デル・ロザリオ号 (Nuestra-Senora del Rosario) が西之島を発見し、ロザリオ島 (Isla de Rosario)と命名する[要出典]。

享保7年(1722年)春、伊豆・相模両国の代官山田治衛門が無人島探検を幕府へ具申[26]。その準備が行われていたところ、小笠原貞任なる人物が、先祖の小笠原貞頼文禄2年(1593年)に伊豆の南で無人島を発見し、所領として安堵されたという写本を提出して渡航許可を求めた[27]。最終的に貞任の主張は虚偽であるとされ、彼は重追放に処されることとなったが、この出来事の結果、問題の島々は小笠原諸島と呼ばれるようになる[28]。また、彼が提出した「辰巳無人島訴状?口上留書」には父島、母島等の名前が記されており、各島の名前も彼の命名が元になったと考えられる[29]

ヨーロッパでは、1727年出版のエンゲルベルト・ケンペルの『日本誌』で初めて長右衛門らが漂着した島について記され、その島は「ブネシマ(無人島)またはブネ(無人)の島」と呼ばれたと書かれている[30]。日本では、天明5年(1785年)の林子平の『三国通覧図説』で小笠原島という名称が登場している[31]。1817年にフランスのアベル・レミューザが三国通覧図説の地図を載せて小笠原諸島を「BO-NIN諸島」として紹介した[32]。以後、ヨーロッパの地図でボニンという名称が使用されることとなったという[32]

安永3年(1774年)3月、八丈島の地役人服部源六、山下輿総らが幕府の命令を受けて無人島探検を行うが、鳥島近海で暴風に遭い、土佐国に漂着したため失敗に終わったという[33]

1779年(安永8年)、ジョン・ゴア(英語版)(John Gore)が指揮するイギリス軍艦「レゾリューション」と「ディスカバリー(英語版)」が火山列島を望見する[16]ハワイに碇泊中の「ブロッサム」

19世紀に入ると欧米捕鯨船が寄港するようになる[34]。1823年9月、イギリス捕鯨船「トランジット」が母島に寄港し、船長ジェームス・コフィンは船主のフィッシャー商会にちなんで島をフィッシャー島と命名した[34]。「ランジット」は、記録に残る中では小笠原諸島に寄港した最初の捕鯨船である[34]。1825年にはイギリスの「サプライ」が父島を訪れ、1826年にはイギリス捕鯨船「ウィリアム」が父島で難破した[34]。1827年6月8日、小笠原諸島を探索していたイギリス海軍の調査船「ブロッサム(英語版)」が到着[35]。「ウィリアム」の元乗組員で、島に残っていた2名を発見した[36]。「ブロッサム」艦長フレデリック・ウィリアム・ビーチーは父島をロバート・ピールにちなんでピール島、母島をベイリイ島などと名付け、領有を宣言した[37]。彼は、発見したのは『日本誌』などの掲載されている島とは別の島であると主張した[38]。この領有宣言はイギリス政府から正式に承認されなかったようである[39]。1828年、ロシア調査船「セニャーヴィン」(フョードル・リトケ艦長)が来訪[39]


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