凡例小笠原持広
時代江戸時代前期-中期
生誕貞享2年(1685年)
死没宝暦9年12月21日(1760年2月7日)
改名政広(初名)、持広
別名萬五郎、頼母、縫殿助
戒名了哲(法名)
墓所種徳寺 (東京都港区)
幕府江戸幕府旗本
主君徳川綱吉、家宣、家継、吉宗、家重
氏族杉浦氏
小笠原 持広(おがさわら もちひろ)は、江戸時代前期から中期にかけての武士。江戸幕府旗本。徳川吉宗が主導した弓術古儀式の復興に関与し、幕府の射礼師範となった。
生涯弓場始(『千代田之御表』より。明治30年(1896年)発行。揚洲周延作画。)草鹿式(現代の小笠原流による演武)百手式(現代の小笠原流による演武)
貞享2年(1685年)、杉浦政盛(大隅守)の三男として生まれ、旗本小笠原持真の養子となった[1]。政盛の父杉浦政清(大隅守)は幕臣から神田館(徳川綱吉付、館林藩)の家老に転じた。政盛も綱吉付の奏者番を務めたが、延宝8年(1680年)11月の徳川徳松の江戸城西の丸入りに従って幕臣に復帰していた[2]。
元禄15年(1703年)12月21日、小姓組の番士となった。宝永6年(1709年)5月3日に養父持真が死去し、同年7月23日に父の遺跡(知行780石)を継いだ。12月27日、小納戸に転じた。[1]
正徳6年(1716年)5月16日、徳川家継の死去により小姓組番士に復帰。享保改元後の同年7月22日、新将軍徳川吉宗の指示により、家伝の書籍91部(うち7種は足利義尚真跡[3])及び鎌倉右大将家(源頼朝)から賜ったゆがけ、足利将軍家から賜った錦を上覧に供した[1][4]。
享保6年(1721年)5月16日にもこれらの書籍の上覧があった。閏7月7日、吉宗は葵紋蒔絵の書箱を下賜し「世に希なる書なれば永く秘蔵すべき」旨を言いつけた。この後、吉宗は近侍の家臣目賀田幸助守咸[注釈 1]、鈴木丈右衛門安貞[注釈 2]の二人に、持広に従って射礼を学ばさせた。これは吉宗がかねてより弓道を好み、諸家の旧記を綿密に調査していたところ、持広の家伝の書が特に古書であり疑いのないものであり[3]、故実が明白であると考えたためであった[1]。[注釈 3]
享保11年(1726年)2月3日、徒頭となり、12月16日、布衣着用を許された[1]。
享保13年(1728年)2月4日、近侍の家臣に弓場始の式[注釈 4]を行わせるため、吉宗の指示により式に伺候した。4月、吉宗の日光山参詣に従った。11月10日、翌年の弓場始は「たいはいの式」[注釈 5]にて行うために、近侍の家臣能勢河内守頼忠、岡山新十郎之英、その他番士8人[注釈 6]を持広の門弟とし、その式を学ばせた。持広はこの件を承る間は(本業である徒頭の)当番を免除された。翌享保14年(1729年)2月5日、江戸城吹上において弓場始が開催され、翌日時服2領黄金3枚を下賜された[1]。弓場始はこれ以後、毎年の恒例となった。[1][注釈 3]
享保16年(1731年)10月1日、先手弓頭となった[1]。
享保17年(1732年)9月21日、小的・草鹿[注釈 7]の上覧があり、翌日時服3領を賜った。享保19年(1734年)10月26日、賭弓の上覧があり、翌日また時服3領を賜った。享保20年(1735年)9月20日、大的式の上覧があり、時服3領を賜った。