小笠原持広
[Wikipedia|▼Menu]

 凡例小笠原持広
時代江戸時代前期-中期
生誕貞享2年(1685年
死没宝暦9年12月21日1760年2月7日
改名政広(初名)、持広
別名萬五郎、頼母、縫殿助
戒名了哲(法名)
墓所種徳寺 (東京都港区)
幕府江戸幕府旗本
主君徳川綱吉家宣家継吉宗家重
氏族杉浦氏→京都小笠原氏
父母父:杉浦政盛、母:山内喜兵衛某の女、養父:小笠原持真、
兄弟杉浦政英、杉浦政則、持広、山田勝用の妻、遠山伊清の妻
妻朝比奈勝盛の女
子持賢、鈴木為政の妻、柴田勝彭の妻
テンプレートを表示

小笠原 持広(おがさわら もちひろ)は、江戸時代前期から中期にかけての武士江戸幕府旗本徳川吉宗が主導した弓術古儀式の復興に関与し、幕府の射礼師範となった。
生涯弓場始(『千代田之御表』より。明治30年(1896年)発行。揚洲周延作画。)草鹿式(現代の小笠原流による演武)百手式(現代の小笠原流による演武)

貞享2年(1685年)、杉浦政盛(大隅守)の三男として生まれ、旗本小笠原持真の養子となった[1]。政盛の父杉浦政清(大隅守)は幕臣から神田館(徳川綱吉付、館林藩)の家老に転じた。政盛も綱吉付の奏者番を務めたが、延宝8年(1680年)11月の徳川徳松江戸城西の丸入りに従って幕臣に復帰していた[2]

元禄15年(1703年)12月21日、小姓組の番士となった。宝永6年(1709年)5月3日に養父持真が死去し、同年7月23日に父の遺跡(知行780石)を継いだ。12月27日、小納戸に転じた。[1]

正徳6年(1716年)5月16日、徳川家継の死去により小姓組番士に復帰。享保改元後の同年7月22日、新将軍徳川吉宗の指示により、家伝の書籍91部(うち7種は足利義尚真跡[3])及び鎌倉右大将家(源頼朝)から賜ったゆがけ、足利将軍家から賜った錦を上覧に供した[1][4]

享保6年(1721年)5月16日にもこれらの書籍の上覧があった。閏7月7日、吉宗は葵紋蒔絵の書箱を下賜し「世に希なる書なれば永く秘蔵すべき」旨を言いつけた。この後、吉宗は近侍の家臣目賀田幸助守咸[注釈 1]、鈴木丈右衛門安貞[注釈 2]の二人に、持広に従って射礼を学ばさせた。これは吉宗がかねてより弓道を好み、諸家の旧記を綿密に調査していたところ、持広の家伝の書が特に古書であり疑いのないものであり[3]故実が明白であると考えたためであった[1][注釈 3]

享保11年(1726年)2月3日、徒頭となり、12月16日、布衣着用を許された[1]

享保13年(1728年)2月4日、近侍の家臣に弓場始の式[注釈 4]を行わせるため、吉宗の指示により式に伺候した。4月、吉宗の日光山参詣に従った。11月10日、翌年の弓場始は「たいはいの式」[注釈 5]にて行うために、近侍の家臣能勢河内守頼忠、岡山新十郎之英、その他番士8人[注釈 6]を持広の門弟とし、その式を学ばせた。持広はこの件を承る間は(本業である徒頭の)当番を免除された。翌享保14年(1729年)2月5日、江戸城吹上において弓場始が開催され、翌日時服2領黄金3枚を下賜された[1]。弓場始はこれ以後、毎年の恒例となった。[1][注釈 3]

享保16年(1731年)10月1日、先手弓頭となった[1]

享保17年(1732年)9月21日、小的・草鹿[注釈 7]の上覧があり、翌日時服3領を賜った。享保19年(1734年)10月26日、賭弓の上覧があり、翌日また時服3領を賜った。享保20年(1735年)9月20日、大的式の上覧があり、時服3領を賜った。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:31 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef