小笠原持広
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寛政重脩諸家譜巻百九十三の小笠原持広の項目による[1]

実父:杉浦政盛

実母:山内喜兵衛某(堀長門守家臣)の女[注釈 12]

養父:小笠原持真

妻:朝比奈勝盛の女 勝盛は杉浦政盛の姉妹の子。

男子:小笠原持賢 - 従五位下筑後守。徳川家重付の小姓。寛延4年(宝暦元年)(1752年)に父に先立って死去。

男子:小笠原持易 - 持賢の嫡男。祖父持広の家督を継ぐ。

男子:川勝隆安 - 持賢の次男。旗本川勝隆恭の婿養子。


女子:鈴木為政(玄蕃)の妻。為政は鈴木重辰 (天草代官)の後裔

女子:橋本喜太郎に嫁し、離婚ののち柴田勝彭(三右衛門)の妻となる。


脚注[脚注の使い方]
注釈^ 小姓。紀州藩で吉宗に仕え幕臣に転じた。(寛政譜巻千四百七十二)
^ 小納戸。紀州藩で吉宗に仕え幕臣に転じた。先祖代々弓術師範で、吉宗の弓術稽古の相手役も務めていた。(寛政譜巻千四百九十九)
^ a b 「すべて射礼のことは、紀藩におはしませしときより、ひろく古礼を探りもとめたまいしが、大統うけつがせ給ひし後も、小笠原縫殿助持広が伝家の古書をはじめ、其外家々の旧伝、古土佐氏の絵巻物までをめしあつめ、考合せ給ひしうへ、猶御みづからの御心をもて新にととのへたまひ、この年頃近臣をして、しばしばこころみたまひしに、漸く御心のことくになりしかば、その御旨を持広につたへ給ひ、かれをして御家人を教導せしめ給ふ事と成りしが、去年二月四日既に近臣のみをゑらばれ、この事こころみ行われしに、盛慮のことくととのひしかば、ことしは近習外様をわかたず、その門弟の中より、進退に熟したるものどもゑらばせ給ひ、はじめてこの事行われ、これより後永例となりて、今も年ことに絶えず。」[5]
^ 武家の年初の年中行事。御弓始とも。朝廷の年中行事である射礼にならい、武家でも鎌倉幕府、室町幕府で行われたが、室町時代以来二百余年の間、古式に則った形での開催が途絶えていた。
^ 体配とは弓術における身の構えや動作、作法。享保6年の書籍の上覧の際に吉宗から、「体配」の文字は深く秘するべき、との指示があり、江戸時代においては「たいはい」と平仮名で表記された[1]
^ 翌年2月の射手は、弓太郎が能勢(小姓)、岡山(西の丸小納戸)、城織部厚茂(小姓組)、富永平助記浮(小姓組)、内藤左門忠如(小姓組)、諏訪源十郎頼直(小姓組)、小長谷喜八郎友長(書院番)、木下主税長保(書院番)。
^ 鹿の形に作った的を射る、歩射の競技。
^ 十人の射手が一手(矢2本)を十回射るもの。祈願等の際に行われる。
^ 円形の板を革で包み綿を入れた的。
^ 「其後、右衛門督宗武卿、好古の志厚く、持広が家伝の書、一覧し給はん事をねぎ給ひしかど、 ゆるし給はず。其後またさらに懇望ありしかば、さらば持広が弟子にならるべしと仰下さる。宗武卿、則持広が門にいらる。その後はじめて御所より其書ども伝へさせ給ひしとなん。かく古道を重むじ給ふ御こころざし、いとあり難き御事にこそ。」[3]
^ 「先に設られし弓場初の式、田安の邸にても、永く伝え、興行せらるべきむね、右衛門督田安宗武卿に仰せつかはさる」[9]
^ 寛政譜の杉浦政盛の項には「妻は山内大膳亮某が女」とされているが、山内豊明(大膳亮)の項[1]では娘は政盛の嫡男政英に嫁したとしている。

出典^ a b c d e f g h i j k l m 堀田 1923, p. 1137.
^ 寛政譜巻五百二十八
^ a b c 成島(附録巻十二) 1904, p. 310.
^ 成島(巻二) 1904, p. 482.
^ 成島(巻二) 1904, p. 950.
^ 成島(附録巻十二) 1904, p. 311.

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