小田島雄志
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1991年に定年して、東京大学名誉教授[2]。1991年から文京女子短期大学教授、1993年から東京芸術劇場館長兼務、2002年に文京女子短期大学は文京学院大学短期大学に名称変更して同教授。2004年に同客員教授[2]。2007年、東京芸術劇場名誉館長[6]

ジョン・オズボーン(en:John Osborne)、アーノルド・ウェスカー、ジョン・アーデン(en:John Arden)などイギリス現代演劇の紹介、翻訳につとめる[1]。1966年、池田健太郎とともに文学座「文芸部顧問」として参加、翌1967年「顧問」から「座員」に[7]。文学座でのシェイクスピア上演をめざしたが、1970年に退団[8]。その後、1972年、演出の出口典雄からの誘いにより[9]、小田島訳シェイクスピア作品が初めて文学座により上演される[1]

シェイクスピアの全戯曲37編の個人全訳に取り組み、1973年から「シェイクスピア全集」(全7巻,白水社)刊行開始。1975年からの、出口典雄が創設したシェイクスピア・シアターのシェイクスピア作品の上演に翻訳を提供したこともあり[10]、1980年に全作品を訳了した[1]。シェイクスピアの個人全訳は、坪内逍遙についで2人目[1]1980年芸術選奨文部大臣賞を受賞。

1995年紫綬褒章を受章、2002年文化功労者に選ばれる。2008年、新人を対象に小田島雄志・翻訳戯曲賞が制定された。

2011年7月1日から1ヵ月間にわたり日本経済新聞社朝刊・私の履歴書にて連載。2021年10月1日、名誉都民に選定された[11][12]
人物

駄洒落を得意とし、シェイクスピア作品に頻出する言葉遊び(パン)を「皇太子だろうが明太子だろうが」(ヘンリー六世より)といった調子で訳して話題を呼んだ。様々に訳されてきた『ハムレット』の有名な台詞「To be, or not to be」 を「このままでいいのか、いけないのか」と訳したことも知られる。テレビバラエティ番組などにもしばしば出演、駄洒落を連発する飾らない人柄が愛された。

アントン・チェーホフの作品を愛好し、いわゆる四大戯曲をマイケル・フレインによる英語訳を元に日本語訳した。この英語訳からの日本語訳という作業は翻訳のあり方をめぐる議論を喚起した。大学院生の時にアルバイトで「池永保夫」という筆名を使ったこともあるが、誰もこれを「チェーホフ」とは読んでくれなかったという。

読売映画・演劇広告賞審査員の審査委員もつとめた[6]

宝塚歌劇のファン。大河内豪(東京宝塚劇場支配人)とはファン仲間だった。

麻雀も愛好しており、「麻雀の神様」阿佐田哲也とも交流があった。テレビ番組「すばらしき仲間」では、阿佐田哲也、五木寛之畑正憲と麻雀をし、小田島は麻雀最高の手「九蓮宝燈」をテンぱったという。

学生時代は詩人を志した。

妻・小田島若子とは共訳も多い。若子(旧姓平林)は東大英文科の1年下であり、小田島が大学院浪人時代のシェイクスピア輪読会仲間である。若子の姉の平林千代は、作家・田宮虎彦の妻[13]。彼女は早くに両親を亡くして奨学金で大学へ行き、卒業後八丈島高校教師になった。その若子に、小田島は八丈島まで行って求婚したという。子供が2人できて東大講師になっても貧しく、狭い官舎で仕事ができず、喫茶店で仕事をする習慣になったとか、英国に留学した友人の高橋康也から、ピーター・ブルックの舞台を是非観ろと言われ、あちこち借金して英国に渡ったなどのエピソードがある。息子の小田島恒志も英文学者、早稲田大学教授。
著書

『ジョン・オズボーン』
研究社出版、1970年

『シェイクスピアより愛をこめて』晶文社、1976年

『珈琲店のシェイクスピア』晶文社、1978年

『シェイクスピアの花咲く頃』晶文社、1980年

『シェイクスピア物語』岩波ジュニア新書、1981年

『小田島雄志のシェイクスピア遊学』白水社、1982年

『シェイクスピアへの旅』朝日新聞社、1983年、のち朝日文庫

『夫婦で朝帰り』(小田島若子との共著)阪急コミュニケーションズ、1983年

『ハムレットと乾杯!』晶文社、1984年

『シェイクスピアの人間語録』PHP研究所、1985年

『シェイクスピア名言集』岩波ジュニア新書、1985年

『小田島雄志の芝居がいっぱい』講談社、1987年


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