小田原征伐
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^ 遠山氏が守備していたが、周辺諸城が開城する中で唯一抗戦の姿勢を見せたため、戸田忠次ら徳川勢が攻め落とした
^ 城主の高城胤則は小田原籠城中であったが、叔父の戦死と豊臣の圧倒的な大群に衝撃を受け、密かに城に使いを送って開城を命じ、浅野長政に降伏させた。
^ 父の相馬治胤が100騎を率いて小田原籠城中に、不仲の子の秀胤が徳川に通じて5月中に開城。戦後、秀胤に本領安堵。
^ 東金酒井政辰が150騎、土気酒井康治は3百騎を率いて小田原城に籠城しており、当主不在。さらに里見氏の北上に備えて各支城にも兵を配していたと推測される。
^ 城主で真里谷武田氏当主の真里谷信高は徳川勢に開城し、那須氏に亡命した。
^ 城主で庁南武田氏当主の武田豊信は日和見的な態度であったため、徳川軍の本多忠勝により落城
^ 井田胤徳は小田原籠城中で留守
^ 本多忠勝により攻略と伝わる。のち本多はこの地を領する。発掘調査で火災跡が見つかっている。
^ 潮田資忠と長男は小田原籠城。次男は落城時に脱出し伯父の太田資武に匿われた。
^ この間、6月5日に小田原に参陣した奥州会津の伊達政宗の詰問を行う為、浅野長政と前田利家は軍を置き、自身らは小田原包囲陣に入っている。6月9日に伊達政宗と秀吉の会見があったため、それ以降に自軍に戻ったと考えられる。
^ このことからも、城方の名のある将は全滅していた、と推測される。
^ 上杉景勝は相続時の因縁から、小田原北条氏とは仇敵である。
^ 芳賀高継。戦後すぐに帰参を許されている。
^ この二者は従兄弟。
^ 養子。実兄は宇都宮国綱であり、国綱・朝勝・芳賀高武の三兄弟は、佐竹義宣・蘆名義広らと従兄弟。なお、近年の研究では小田原征伐当時、朝勝とは別人の結城氏当主がいたかもしれないことが示唆されている。
^ 結城晴朝の実兄
^ 八王子城に籠城し、戦死。
^ 正室は佐竹義重養女
^ 壬生義雄の妹婿
^ 江戸重通は縁者の結城晴朝の下へ逃れ、大掾清幹は自刃。
^ 小田原には義宣と共に参陣している。
^ 小野崎昭通(照通)は伊達政宗の娘五郎八姫と家康六男の松平忠輝の婚姻に伊達家から付属し、忠輝家中となり越後高田藩士となるが、忠輝改易により浪人。その後増上寺の仲介により徳川御三家水戸藩に仕え、常陸に復帰している。
^ のちに佐竹氏の重臣となる元・小山家臣の渋江政光はこの時浪人し、佐竹氏に登用された。
^ 常陸下館城水谷正村らは結城氏の親族で家臣。小田原征伐後は独立大名として4万7,000石を安堵された上で結城氏寄騎。
^ のちに資晴も許され、別に所領が与えられた。
^ ただし国繁と顕長の間にもう一人、渡瀬繁詮という兄弟がいたことも考慮すべきである。繁詮は当初兄弟と同じく北条傘下であったがのち離れ、上方に出て豊臣家に仕え、豊臣秀次の重臣となっていた。
^ 氏姫の母も祖母も北条氏の娘。
^ 戦後、弟の関根勝直と共に結城秀康に仕える。越前騒動で追放。
^ 牢人であった仙石秀久が活躍し、秀吉の勘気が解けたという話が残る。
^ 箕輪城主の北条氏邦(藤田氏邦)は小田原籠城に反対し、大規模な野戦を主張したが採用されず、領内の鉢形城に籠城して10倍の北方軍と対峙、6月初旬に既に開城している。
^ 嫡男で松田憲秀娘婿の内藤直行は小田原に詰めていたため、内藤綱秀と老臣ら150名で防戦。津久井衆を率いて、4月に中郡白根に駐屯する豊臣勢に攻撃している。6月に徳川勢の本多忠勝鳥居元忠平岩親吉戸田忠次、松平康貞ら1万1千余の攻撃を受けた。
^ 大道寺政繁は早期に降伏し、以降は豊臣方として他の城の攻城や開城交渉に働いていた。
^ 後述するが、この時点までに織田信雄は改易されている。
^ 後年、家康の江戸入城は8月1日とされているが、『家忠日記』には秀吉の江戸城入りの前日の7月18日の段階で江戸城に入っている。

出典^ 伊達家文書「小田原征伐陣立書」
^ 中野、2015、p.156。
^ 池田公一、下山治久、湯山学、伊藤一美、柴辻俊六『戦国合戦大事典(二)』(新人物往来社、1989年)

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