小田原征伐
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^ 城主の山本常任は討死
^ 獅子浜城は関宿城大石直久1200。安良里城に三浦茂信、田子城は山本正次
^ のちに北条氏に代わり関東の領主となった徳川家康は、松田康長の子の松田直長や、間宮直元ら間宮康俊の孫を家臣として召し抱えている。北条氏勝・繁広兄弟も家臣とした。間宮康俊の娘は家康の側室となっている。蔭山氏広の義娘の養珠院も側室となっている。
^ 秀次の寄騎や直参兵が主力ではあったが、実際に総大将たる秀次自身が危険な場に突入したかは不明。
^ 江戸城主の遠山景政が守備していたが、徳川勢に攻められ30余名の戦死者を出して落城
^ 家康と氏規は幼少時期、共に駿河の大名今川義元の下で人質生活を送っており、その頃の旧知であるとする説がある。また家康と氏規はこれまでも時々交渉の書簡を交わしており、双方に音信があった。氏規は小田原北条氏の名代として上洛し、秀吉との折衝を行っている。すなわち家康と氏規は豊臣方と北条方の交渉担当的な存在であった。
^ 宗二が北条氏に義理立てした、とも伝わる。
^ 孫を脱出させた、とも。長男はこの時、小田原城にいた。またこの脱出を真田昌幸が見て見ぬふりをした、との話が伝わる。
^ どちらも小幡氏の城であり、当主の小幡信貞父子らは小田原籠城中。国峯城と庭谷城の守備を命じられたのは庭谷城主の庭谷兼行。国峯城を落としたのは上杉景勝麾下の藤田信吉
^ 垪和氏・内藤直矩が戦わずに開城し、真田昌幸が入城した。
^ 城主の金井秀景は小田原城に行き不在
^ 富岡氏の先代富岡秀高が守備
^ 城主大胡高繁は小田原に籠城
^ 城主の白倉重家は小田原在陣。弟の白倉重治が残兵と共に守備。
^ 上杉勢の藤田信吉に攻められ、城主の多比良氏は降伏した。
^ 石倉城守将の寺尾左馬助から康国への申し入れにより一旦は開城となったが、開城時の混乱の中で疑心暗鬼に陥った左馬助が康国を殺害、康国弟の依田康勝が左馬助を討ち取った、という話が伝わる
^ 城主の猿渡盛正は八王子城に籠城し、討死。
^ 遠山政景の弟の川村秀重が1000人で守備していたが、浅野長政や徳川麾下の榊原康政戸田忠次らが攻め寄せたため開城降伏
^ 遠山氏が守備していたが、周辺諸城が開城する中で唯一抗戦の姿勢を見せたため、戸田忠次ら徳川勢が攻め落とした
^ 城主の高城胤則は小田原籠城中であったが、叔父の戦死と豊臣の圧倒的な大群に衝撃を受け、密かに城に使いを送って開城を命じ、浅野長政に降伏させた。
^ 父の相馬治胤が100騎を率いて小田原籠城中に、不仲の子の秀胤が徳川に通じて5月中に開城。戦後、秀胤に本領安堵。
^ 東金酒井政辰が150騎、土気酒井康治は3百騎を率いて小田原城に籠城しており、当主不在。さらに里見氏の北上に備えて各支城にも兵を配していたと推測される。
^ 城主で真里谷武田氏当主の真里谷信高は徳川勢に開城し、那須氏に亡命した。
^ 城主で庁南武田氏当主の武田豊信は日和見的な態度であったため、徳川軍の本多忠勝により落城
^ 井田胤徳は小田原籠城中で留守
^ 本多忠勝により攻略と伝わる。のち本多はこの地を領する。発掘調査で火災跡が見つかっている。
^ 潮田資忠と長男は小田原籠城。次男は落城時に脱出し伯父の太田資武に匿われた。
^ この間、6月5日に小田原に参陣した奥州会津の伊達政宗の詰問を行う為、浅野長政と前田利家は軍を置き、自身らは小田原包囲陣に入っている。6月9日に伊達政宗と秀吉の会見があったため、それ以降に自軍に戻ったと考えられる。
^ このことからも、城方の名のある将は全滅していた、と推測される。
^ 上杉景勝は相続時の因縁から、小田原北条氏とは仇敵である。
^ 芳賀高継。戦後すぐに帰参を許されている。
^ この二者は従兄弟。
^ 養子。実兄は宇都宮国綱であり、国綱・朝勝・芳賀高武の三兄弟は、佐竹義宣・蘆名義広らと従兄弟。なお、近年の研究では小田原征伐当時、朝勝とは別人の結城氏当主がいたかもしれないことが示唆されている。
^ 結城晴朝の実兄
^ 八王子城に籠城し、戦死。
^ 正室は佐竹義重養女
^ 壬生義雄の妹婿
^ 江戸重通は縁者の結城晴朝の下へ逃れ、大掾清幹は自刃。
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